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闇に消えた対中国地下放送

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发表于 2016-7-21 09:32:51 | 显示全部楼层 |阅读模式
1966年に勃発した文化大革命は中国国内を大混乱に陥れた。それと同時に、その混乱に乗じるかのように地下放送が暗躍し始めた。中国国内からの放送を装ったそれらの放送の一部は、文革が終結した後も放送を続けた。どのような機関が、何のために行ったのか。闇に消えた地下放送の謎を追った。(1)


「解放軍之声」と「火花」


 地下放送の出現を初めて伝えたのは1967年1月13日付の朝日新聞であった。香港特派員電のこの記事は「香港に毎夜、どこからともなく流れてくる2つの秘密放送の電波が中国問題専門家たちの注意を引いている。中国の人民解放軍に対する工作に重点をおいた『解放軍之声』と”権力派”の擁護を叫ぶ『火花』で、いずれも12月半ばごろから毛•林主派反対の声を流している」とし、さらに「初めは国府の謀略放送とみられていたが、最近ではどうもそうではなさそうだという見方が強い」と述べている。ニューヨーク•タイムズ紙も1968年7月22日付けの香港電で「解放軍之声」の出現を伝えた。同紙は「北京之声」という反毛地下局の存在も報告されていると報じている。
 「火花」は20:00ごろ、9600kHzで受信できた。「這里是火花(3回繰り返す)。我們将要帯給尓們更多的『燕山夜話』」というアナウンスでいきなり始まった。「燕山夜話」は文化大革命の初期に「三家村反党グループ」の一人として批判されたトウ拓(党北京市委員会書記)の著書。放送内容は人民日報の社説などを批判したもので、終わりには必ず「打倒毛林少数派!我們革命的共産主義青年員万歳! 偉大的中国共産党万歳!」などと叫び、その後再び開始時のアナウンサーが出てきて「這里是火花。。。更多的『燕山夜話』。同志們!請継続収聴我們更多的『燕山夜話』。同志們!再見」で終了した。
開始時と終了時のアナウンサーはいつも同一の男のアナウンサーであった。
 「火花」の1971年8月当時のスケジュールは次の通りであった。
18:00 9600kHz
18:30 7165
18:45 9600
19:00 7185
20:00 7185
22:45 7185
00:00 7185
 いずれも約7分間の放送で、上記のスケジュールはかなりの間、変動なしに続いた。 
 「解放軍之声」は、7290kHzで00:00~01:00にかけて入った。いかにも軍人らしい男の口調で、「請注意!這里是解放軍之声」というアナウンスとともに中国国歌「義勇軍行進曲」の合唱がかかった。「義勇軍行進曲」は、文革以前には北京放送局でも「東方紅」のあとで演奏されていたが、作詞者の田漢が文革で批判されたため、当時は国慶節などに限って、メロディーだけが演奏されるようになっていた。
 この曲が終ると、「請注意!這里是解放軍之声。同志們!解放軍指戦員同志們。。。」とその日の放送内容に入っていった。終わりには「打倒反革命毛林少数派!我們革命的解放軍万歳!偉大的中国共産党万歳!同志們!這里是解放軍之声。同志們!再見」と呼びかけて終った。1969年ごろからは、終了時にも「義勇軍行進曲」をかけるようになった。
 この放送は1971年ごろが一番活動が活発であった。同年8月当時のスケジュールは次の通り。放送時間は約7分間。
18:30 9660kHz
19:00 9660、11795
19:30 9660、11795
20:00 9660
20:15 15055
21:00 9660
21:30 7290
21:45 11795
22:00 9600、9660
22:15 7290、15055
23:00 9660、11795
00:00 7290
01:00 7290
 2波を使用しているときは同一内容であっても、同期ではなかった。「解放軍之声」はその後、1989年に姿を消すまで20年以上も放送を続け、一番長く放送を続けた地下放送となる。


「中国共産党広播電台」


 1968年初め、新たな地下放送「中国共産党広播電台」の存在が確認された。(2)6090kHzで受信された。「中国共産党的同志們!請注意!請注意!」というアナウンスが繰り返され、「這里是中国共産党広播電台(2回繰り返す)。我們是中国共産党員、也是熱誠的馬克斯列寧主義者。。。」と放送の初めにアナウンスされた。終わりには「這里是中国共産党広播電台。我們必須中国共産党的党員高挙着馬克斯列寧主義的紅旗。。。注意収聴我們的播音。我們要為我們共同的目標奮闘。。。中国偉大的無産階級革命必須回到正確的馬克斯列寧主義的路線。同志們!現在要我們高呼。偉大的中国共産党万歳!偉大的馬克斯列寧主義万歳!偉大的社会主義建設万歳!無産階級専政万歳!中華人民共和国万万歳!這里是中国共産党広播電台(2回繰り返す)。同志們!再見」というアナウンスの後に「団結就是力量」の合唱が流れた。
 放送時間は1970年8月当時、18:00、21:00、23:00で、それぞれ約10分間。1970年4月には11320kHzも使用していることが確認された。6090kHzとは数秒ずれていた。一方が強力なときは、他方の波は弱いという現象がみられた。
 「中国共産党広播電台」はややその性格があいまいであった。放送の中で「毛沢東」と呼び捨てにせずに「毛主席」という言葉を使っていたのが特徴。同放送は71年4月ごろ聞こえなくなった。


「無産者戦闘師」


 「無産者戦闘師」が初めて受信されたのは1968年12月3日。「請注意!我們是無産者戦闘師(2回繰り返す)。現在我們要向大家做一個重要的宣布」と男のアナウンサーがゆっ続きり2回繰り返して始まった。放送時間は約10分間。終わりには「我們要継続為恢復中国共産党而努力奮闘。馬克思列寧主義万歳!馬克思主義的中国共産党万歳!同志們!我們是無産者戦闘師。。。」とアナウンスがあった。
 アナウンサーの発音には癖があり、「毛林邪幇」「毛家党」という言葉がよくでてきた。
 7525kHzの1波しか使わないのが特徴で、1970年ごろには23:30の1回だけだったが、1年後には19:45、21:15、23:30、23:45と回数が増えた。1971年5月ごろ、局名も「戦闘師」となり、「インターナショナル」で開始•終了するようになった。  




親毛派地下放送の出現


 文革中現れた地下放送の中で最も奇怪で唯一の親毛沢東派の放送が「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台」である。1968年10月26日に6195kHzで初めて受信された。それ以後しばらく聞こえず、1969年から1970年に不定期に19:00と21:00に7105kHz出でていた。信号は極めて強力で、番組は約15分間。同放送は、「東方紅」の合唱とともに開始した。合唱の途中で「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台」と2回繰り返し、合唱が終わると「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台。現在向全区指戦員跟們広播(2回繰り返す)。解放軍指戦員戦士同志們、無産階級革命派的戦友們、紅衛兵少将。。。工人同志們!我跟戦士同志們、無産階級革命派的戦友們、紅衛兵少将。。。工人同志們!我們。。。」と軍人口調のアナウンサーが演説を始めた。内容は「われわれは毛主席を防衛し、プロレタリア文化大革命の勝利の成果を防衛する。永遠に毛主席に忠であり、永遠に毛沢東思想に忠である司令部である」などと毛沢東を讃え、文革を支持する放送であった。同放送は終了時にも「東方紅」を流した。1971年4月には、この放送も聞こえなくなった。


「真正代表無産階級的工農広播電台」


 「真正代表無産階級的工農広播電台」は1970年4月11日の受信記録があるのみ。7305kHzで、19:00から約5分間の放送であった。「這里是真正代表無産階級的工農広播電台」と2回繰り返して始まった。「我們工人。。新中国的主人。我們工人階級必須領導一切。同志們!工農。。。節目現在報告新聞。。。」と内容はニュース形式のようであった。終わりには「同志們!我們工人階級必須為労働群衆的。。x努力!全世界無産者聯合起来!無産階級的専政万歳!」と叫び、「這里是真正代表無産階級的工農広播電台(2回繰り返す)。請注意収聴、請注意収聴」のアナウンスで終了した。
         
局名のない地下放送


 局名のない文芸局を最初に確認したのは1970年7月2日。不定期な放送で、 12:45に11735kHz、16:50に11280kHz,21:25に7085kHzで出ていた。この放送は女性のアナウンサーの「各位同志、文芸節目現在開始」というアナウンスとともに始まり、当日放送する京劇の紹介のあと、京劇が1時間も続いた。この放送の背景には、文革時には”革命現代京劇”のみ許されていたという事情もあったと思われる。同放送はジャミングを受けていた。また、同放送が出ていた時には「中国共産党広播電台」は出ていなかった。
  
「新聞与音楽電台」


 続いて、中国地下放送の中では、最も地下放送らしくない「新聞与音楽電台」が現れた。1971年9月28日が最初の受信である。(3)ドヴォルザークの「新世界」で始まった。「毎日午後5時から午後6時まで、周波数は7155kHzで放送する」とアナウンスした後、テレタイプの「カタカタ」というノイズとともに1回目のニュースとなった。
 当時は国連で中国代表権問題が最大のヤマ場をむかえていたころで、ニュースもこの問題を扱っていた。ニュースは約10分間。その後、35分間の音楽番組となり、中国音楽ばかりでなく、西洋音楽も流していた。終る前にもニュースを流した。周波数は7155kHzのほかに6070kHzを使っていたが、別の番組を流していた。1971年12月には9570kHzも加わった。1972年3月ごろからは17:30に開始し、18:40に終了した。同放送は1972年5月ごろまで聞こえていたことは確認されている。局名のない文芸局は「新聞与音楽電台」が現れたときには、既に消えていた。


中波地下放送「紅旗広播電台」現る


 同じ時期の1971年9月11日、中波の995kHzで「紅旗広播電台」の存在が確認された。北海道では信号は極めて強力であった。(4)21:30、22:00、22:30に10分間の放送であった。「紅旗広播電台、紅旗広播電台」とゆっくりとしたアナウンスで始まった。林彪事件直後のこの放送は、林彪を毛沢東とともに非難しており、事件の発生をうかがわせるものはなかった。毛沢東に関しては、「毛家王朝」「毛沢東匪幇」「假馬列主義者」などの言葉を投げつけていた。アナウンサーは2人の男性で、1986年に閉局するまで変わらなかった。番組は評論、ニュース、掛け合いの相声など。同放送のアナウンサーの中国語は特徴的であった。 


林彪事件と地下放送


 1972年、ニクソン米大統領が中国を訪問し、中国からはしきりに「異変」が伝えられ始めたころ、中国地下放送にも明らかに異変が起こり始めた。「火花」「解放軍之声」「戦闘師」の活動が不活発になった。(5)
 「紅軍広播站」が現れたのはこのころである。(6)同局は放送時間、周波数とも一定しておらず、神出鬼没の感があった。開始アナウンスは「我們是紅軍広播站。現在向全党同志、全軍指揮員和全国人民広播」で、「解放軍進行曲」がかかった。
 林彪事件が起き、ニクソン大統領が訪中した後だけに論調も大きく変化した。「毛周反革命集団」という言葉で指導部を攻撃するようになった。同放送は、1977年には消えた。(7)
 最も謀略性の強い偽「中央人民広播電台」が現れたのもこのころと推定される。(8)同放送は30分間の放送の冒頭と最後の部分は本物の中央人民広播電台の録音が使用され、中間部分の10分間程度が偽の番組となって、指導部を批判する報道や論評が流された。偽の部分はアナウンサーの発音が悪く、すぐに偽物と判断できるほどであった。同放送は1974年ごろには、20:00、20:30、21:00、21:30、22:00に5~9MHz帯の中央人民広播電台や地方局の周波数の近くで、不定期に出ていた。
        
地下放送の再編


 1974年4月、「解放軍之声」、「戦闘師」は当初の「無産者戦闘師」の名称で、「火花」が「火花台」と改称して再開した。再開と同時に放送の形式も変えた。三者とも「インターナショナル」で開始•終了するようになった。(9)「火花台」の開始アナウンスは「請注意! 請注意!這里是火花台。向全国青年同志広播」。「解放軍之声」は「請注意!請注意!下面請聴解放軍之声(2回繰り返す)」。「無産者戦闘師」は「請注意!這里是無産者戦闘師。現在向全国真実馬列主義立場的同志們広播」。
 三者は1975年秋ごろほぼ毎日、いずれかの局が、以下のスケジュールで、不定期に出ていた。(10)
19:00、19:15、19:30  7l65kHz
20:00、20:15、20:30  7520


文革の終結と地下放送


 1976年9月に毛沢東が死去し、翌年、文革の終結が宣言されたあとでもこれらの地下放送は活動を続けた。1978年、新たに現れたのが「十月風暴広播電台」である。(11)内容は毛沢東路線を賛美し、指導部を資本主義路線を歩むものと批判した。当初は朝のみの放送で、6時ごろから8時半にかけて7175、9656、9674、9710kHzを使用していた。「インターナショナル」で開始•終了、「十月風暴、十月風暴、十月風暴広播電台」というアナウンスが出た。


中越戦争と「八一電台」


 1979年3月、中越戦争の勃発とともに、別の地下放送が出現した。この局の出現を伝えたのは「ベトナムの声」放送であった。79年3月10日のバンコク発AP電は同放送の報道として「中国領内にある秘密放送局が9日から反中国情報を流し始め、中越国境軍事衝突に関してはベトナムを支持している」と伝えた。(12) 
 BBC・Monitoring Serviceが発行するWorld Broadcating Information(WBI)1979年3月15日号は次のように述べている。「3月10日のベトナムの声国内向け放送はニュースの中で、”八•一”という中国の局が前日22:00に19メーターバンドで放送しているのが受信された、と報じた。このニュース及び東南アジア向け英語放送でベトナムの声放送は、”八•一”は中国人民解放軍が運用しているもので、ベトナムに対する中国の行動に反対する内容を流している、と述べた。徹底的に捜したが、”八•一”の存在は確認できなかった」
 同4月19日号は「4月11日から12120kHzで聞こえている」とし、同4月26日号は「アナウンサーの発音は生粋の中国人の発音に近く、中国北東部出身の人物と思われるが、放送内容の言葉の使用法は下手で、中国人以外の者が書いているものと考えられる。技術的な調査によると、送信機の所在地は中国の北東部国境を越えた所にある可能性がある」としている。
 アナウンサーは2人、それぞれ北方系と南方系のなまりを持っていた。「八•一」は中国人民解放軍の創立記念日を指している。「ベトナムの声」放送は、その後もしばしば同放送の報道を引用している。(13)当初の2年間は、21:00~01:30の間の毎正時と30分に出ていたが、1981年4月16日から、毎57、27分に出るようになった。1981、1982、1985年の夏は、約1カ月間休止している。約5分間の放送で、終わりに「以上是八一電台的広播」と出た。
      
第二の中波地下放送


 1979年5月、中波で新たな中国地下放送の存在が確認された。1235kHzで21:20に終了し、不定期であった。(14)同放送は「中国人民之声」と確認された。(15)21:00、22:00、22:30などに約15分間。西日本や沖縄で良好に受信された。(16)1988年ごろには、毎週木曜、金曜の21:00,22:00,22:30にに集中していた。アナウンサーは男性1人、女性2人。(17)
       
「紅旗広播電台」「八一電台」の停止


 「紅旗広播電台」は1977年ごろは休止状態だった。1978年には、23:00、23:30(18)、1981年からは、21:45、22:15、22:45、23:15の時間に、それぞれ同一の内容を2回繰り返した。1981年7月19日からは特に強力に入感するようになった。1986年5月5日からは、夏時間の採用とともに1時間早まった。(19)  中国当局は地下放送に対し、出現当初から妨害電波を出していたが、1982年5月末から一時中止した。1984年6月5日から再開したが、「八•一電台」に対しては、妨害を再開しなかった。
 「紅旗広播電台」は1986年11月29日の放送を最後に停止した。(20)「八一電台」も同じころ放送を停止した。(21)
 
「解放軍之声」系の再編


 一方、「火花台」「解放軍之声」「無産者戦闘師」は1976年から1977年初めにかけて活動が鈍り(22)、1977年5月から、次のような出現パターンが定着した。
18:00、18:15、18:30  7285kHz
19:00、19:15、19:30  7170
20:00、20:15      7525
 日によっで出てくる局は変わった。1981年ごろから各時間とも上記3波のうちいずれか1波を使用するようになった。1983年2月11日、このパターンが変化したことが確認された。7185、7525kHzのパラレル送信となった。(23)
 同年5月3日からは「十月風暴広播電台」が「火花台」などと同一のスケジュールで出るようになり、「火花台」なども偽「中央人民広播電台」の周波数であった9267kHzを使用するようになった。さらに、同年12月に9267kHzが9660kHzとパラレル送信であることが確認された。(24)
 偽「中央人民広播電台」は1978年ごろから、21:00、23:00に出現するようになった。1983年には、7185、7525kHzのパラレルか9267、9660kHzのパラレルの何れかになった。(25)1982年ごろには「火花台」は木曜に集中して出現するようになった。
 1984年4月ごろから、「火花台」は9660kHz,「解放軍之声」は7185kHz、「十月風暴広播電台」は9267kHz、偽「中央人民広播電台」は7525kHzというパターンとなった。
 「無産者戦闘師」は同年3月19日を最後に聞こえなくなった。(26)
 1985年6月には、さらに「火花台」がほぼ活動を停止し(27)、「解放軍之声」「十月風暴広播電台」の放送時間が23:00~00:00間に変更され(28)、金曜から月曜にかけて現れることが多かった。
 偽「中央人民広播電台」の出現は金曜に集中していた。放送時間は、86年5月9日から、夏時間の採用と同時に1時間早まり、20:00、22:00となった。(29)


民主化運動と地下放送の終焉


 「解放軍之声」「十月風暴広播電台」偽「中央人民広播電台」は1989年の天安門事件の直後にその長い歴史の幕を閉じた。(30)「中国人民之声」も同じころ聞こえなくなった。代わって現れたのが「民主広播電台」である。(31)7125kHzで18:00~01:00の間、12分間の不定期の放送であった。「民主是当前世界不可抗拒的潮流。只有民主才能救中国。中華児女們、起来!。。。埋葬中国最後一個封建王朝」というスローガンを叫んだ。合唱曲「黄河」の「保衛黄河」で終了した。同放送はいつの間にか姿を消した。(32)
1990年8月上旬、「民主之声広播電台」が8057kHzで出現した。深夜から未明にかけて1時間前後の放送。9月下旬から10月上旬、1991年2月、6月受信された。(33)


その正体は?


 では、この様な地下放送を行っていた者の正体は誰なのか? 局名を変えてはいるものの、使用周波数などからみて「火花(台)」「解放軍之声」「無産者戦闘師」「紅軍広播站」偽「中央人民広播電台」「十月風暴広播電台」「民主広播電台」は明らかに同一送信機を使ってた。
 一方、「中国共産党広播電台」「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台」「真正代表無産階級的工農広播電台」「新聞与音楽電台」「局名のない文芸局」に共通するのは、放送が始まる前、マイクのスイッチをいれるような「コトン」という音が入ったことである。音質も似ており、信号の強さも同じようだったことから、同一の送信機を使用していたと考えられる。
 米国CIAに勤務していたVictor Marchetti、Johon Marks共著の"The CIA and the Cult of Intelelligence"によると、「CIAは文革中に台湾に2台の送信機を設置し、中国を混乱させるために謀略放送を行った」とある。「中国共産党広播電台」系はこれである可能性が強い。
 サンケイ新聞は1971年4月9日付の「ナゾの地下放送」と題する記事で、「(解放軍之声の)発信地は沖縄あたりで、米軍関係者あたりの手によって組織された地下放送ではないか」というラヂオ•プレス(RP)の話とともに、「論理は、ソビエト共産党の路線にものった点があり、ソビエト基地説もある」と伝えた。
 米国のラリー•マグネ氏は1973年発行の"How to Listen to the World" (7th Ed.)で「火花台」はソ連のKGBが行っているものとし、スタッフは亡命中国人でモスクワのSun Yatsen大学出身の”第28ボルシェビキ•グループ”であると述べている。この記述はその後、多くの本に引用されている。(34)しかし、マグネ氏はこの説の根拠については全く示していない。
一方、D•コンデ著「CIA黒書」(l968年)は、「1966年の夏以来、中国本土周辺を『海賊放送船団』が就航を始め、中国人で放送を聞く能力のあるもの、聞きたがっている者の耳に、ワシントンのメッセージを注ぎ込んだ。これは最も腹黒い種類に属する”黒い”ペテンの宣伝であり、国家首脳の間に混乱をまき散らし、中国を内部から崩壊させることを企図していた」としている。
 ”Far Eastern Economic Review"誌1979年5月4日号はソウルからの報道として、「八•一電台」はウラジオストク地域からの放送で、発音が東南アジアのナマリであることからベトナム人がソ連と協力して行っているのではないか、としている。
 BBC•WBIは中国地下放送については「八•一電台」のみを取り上げ、他は黙殺していた。WBIが初めて「火花台」を取り上げたのは1983年10月20日号であり、「ベトナムの声」放送を引用しての報道であった。同年11月10日、17日号では、「十月風暴広播電台」「火花台」という地下放送が開始したという「ベトナムの声」放送の報道を伝えるとともに、「実際には、これららの放送は数年(several years)にわたり活動している」という編集者注を付けた。「解放軍之声」については同年12月8日号、「無産者戦闘師」は1984年1月5日号、偽「中央人民広播電台」は1985年9月12日号で、それぞれ初めて受信されたと報じた。
 しかし、WBIは通常、地下放送については、その発信地を推定でも載せているが、中国地下放送については、「八•一電台」を除いて、まったく触れなかった。
WBIに極東地区の情報を提供しているのはCIAとつながりのあったForeign Broadcast Information Service (FBIS)であり、FBISが1970年代に出していた”Broadcasting Stations of the World" にはCIAが関係していた地下放送はリストされておらず、中国地下放送も載っていなかった。これは何を意味しているのであろうか。
 BBCが「火花台」などの存在を伝えてから、マスコミが報じることとなった。1984年4月にロサンゼルス•タイムズ紙に載った同紙北京特派員電は「西側のモニターは、南シナ海の船上からの放送であると見ている。BBCは台湾が行っていると見ているが、ソ連が行っていると見る西側外交筋もいる」と伝えている。同記事は台湾の中央日報(4月16日付)に転載された。
 1984年5月7日付のニューヨーク•タイムズ紙は「信号の強さから、ベトナムからという見方が強まっている」としている。
 "Asia Week"誌(1985年4月26日)は「『八一電台』はソ連のシベリアから送信されており、『火花台』は東シナ海の船上からの放送と思われる。放送を分析している人は、台湾が関わっている可能性を否定していない」とし、その理由として台湾の放送が使い、中国ではほとんど使われない「中共」、「大陸」などという言葉を使っていることを挙げている。
 "Jane's Defence Weekly"誌(1985年7月27日)はバンコク発の記事で、「火花台」「十月風暴広播電台」「八•一電台」は南シナ海の船上からの放送とみられるが、台湾が行っているのか、ソ連なのか不明とし、さらに同年10月5日の同誌は「ソ連がベトナムと協力して行っているのではないか」という見方を強めている。
 一方、VOA北京特派員は1985年9月11日の放送で「八•一電台」はベトナムから出ていると伝えた。同年9月9日のデーリー•テレグラフ紙は「八•一電台」はソ連からの放送であるとしている。
 このように、地下放送の発信地をめぐってはマスコミの報道は混乱している。1982年、NHK外国放送受信所の施設を借り、これらの放送の方向探知調査を行った。それによると、「八•一電台」は325度、「火花台」は250度の指向性を持つアンテナを使用した場合、最も信号が強かった。受信所を中心にした各都市の方位は、台北237度35分32秒、上海255度48分52秒、ウラジオストク326度35分32秒、ハバロフスク349度27分18秒である。
 「八•一電台」については、BBCなどの情報を裏付けており、ソ連によるものと断定できる。「紅旗広播電台」も方向探知調査により、ハバロフスク付近から送信されていたとみられる。
 「八•一電台」「紅旗広播電台」の論調は、反米帝国主義、反日本軍国主義、開放政策批判で、米中、日中の離間を狙ったものであった。「八•一電台」で注目されるのは、林彪ら軍人を四人組らの被害者として擁護している点である。
 中ソの和解が進む中、両放送が停止したこともソ連基地説を裏付けている。「紅旗広播電台」が停止後、ソ連の「和平与進歩広播電台」中国語放送に同放送のアナウンサーの声に酷似した人物が登場した。(35)
 一方、方向探知は「解放軍之声」系が東シナ海の船上からの放送という説を証明している。毎年夏、台風が台湾海峡にあるときには「解放軍之声」系の地下放送は出現しなかった。状況的には台湾によるものとみるのが妥当であろう。(36)。「中国人民之声」は偽「中央人民広播電台」のアナウンサーの声と非常に似ている。
 Lawrence Soley, John Nichols共著の"Cladestine Radio Broadcasting"(1987年)は「解放軍之声」はCIAによって始められ、1972年ころ台湾当局に運営が移されたのではないかと推測している。
 同書は「八•一電台」がソ連やベトナムとの関係を改善させるような形で中国政府を批判はしているが、中国政府の打倒までは呼びかけていないのに対し、「解放軍之声」系は中国政府の転覆を呼びかけ、ソ連やベトナムとの関係にはほとんど触れない点を指摘している。
 一方、「民主之声広播電台」は台湾による別の系統と推測される。
 これらの放送は”ブラック•プロパガンダ”の典型である。いまだにその真の正体は明らかになっていない。


 (本稿はアジア放送研究会が1986年に発行した「中国地下放送動向分析」を加筆、訂正したものである)
(C)1986,1997 Asian Broadcasting Institute







(1)文革以前にも中国からの放送を装った謀略放送があった。1976年1月17日付けのワシントン•ポスト紙によると、中ソの関係が悪化し始めていた1960年代初め、CIAは北京放送を装い、ソ連の指導者を攻撃する放送を行ったとある。当時の日本の無線雑誌にも同放送とみられる局の受信報告がある。
(2)日本短波クラブ会誌1968年4月号に、赤林隆仁氏が2月26日に受信、不明局として報告している。
(3)Sweden Calling DX-ers 1971年10月1日号への鳥居英晴氏の報告。
(4)Tokyo DX Club 会誌1971年9月25日号への鳥居英晴氏の報告。
(5)「火花」についてはSweden Calling DX-ers1972年8月22日号に高橋伸明氏の受信報告がある。「戦闘師」については「電波技術」誌1973年10月号に細野誠一氏の受信報告がある。「解放軍之声」についてはJapanese Association of DX-ers会誌1974年3月1日号に受信報告がある。不活発ながら放送は続けられていたようだ。
(6)日本短波クラブ会誌1972年5月号に宇草勲氏が「7290kHzで不明中国語地下局を受信。15:15~15:23GMT.”解放軍之声”ではない。軍隊行進曲で終了•開始。3月23日と24日に受信」とリポートしている。これが同放送であることは間違いない。長瀬博之氏は同局のモニター結果を「電波技術」誌1972年9月号に詳しく発表している。
(7)「短波」誌1976年9月号に同年5月16日の受信報告がある。
(8)正式に確認されたのは長瀬博之氏で、1974年5月1日22:00に7530kHzで受信。しかし、「電波技術」誌1972年4月号に川口大助氏が「2月8日19:30から20:00過ぎまで、5025kHzで中国語地下局を受信」という報告を寄せており、同放送である可能性もある。
(9)長瀬博之氏は1974年4月11日に7525kHzで「解放軍之声」が「インターナショナル」で開始•終了するのを確認している。同氏は4月5日に「無産者戦闘師」とでているのを確認している(Japanese Association of DX-ers会誌1974年4月16日号)。
(10)Japanese Association of DX-ers会誌1975年11月15日号の宇草薫氏のリポートによる。
(11「アジア放送研究月報」1981年12月号の西田邦浩氏の報告。
(12)AP電は同放送を「北方一号」としているが、「八•一」の誤訳であることは間違いない。これに先立って、小河隆幸氏が3月3日に「八•一電台」を受信している(「短波」誌1979年7月号)。
(13)1983年3月24日朝日、読売=RP電など。
(14)「短波」誌1979年10月号の長瀬博之氏の報告。
(15)「アジア放送研究月報」1980年12月号の高嶋秀敏氏の報告。
(16)1979年8月15日の台北発中央社電は「湖南地区に『湘江人民之声』と称する反共地下放送が5月から放送を開始。周波数は1020kHz前後。放送は不定期で、約10分間の放送。1975年2月、ベトナムへの援助物資を南寧に運ぶ途中、衝陽でなくなり、その中にあった送信機をこの秘密局は使っている」としている。
(17)「アジア放送研究月報」1988年5月号の儀間辰男氏の報告)
(18)「短波」誌1978年12月号の長瀬博之氏の報告。
(19)「アジア放送研究月報」1986年6月号の須賀哲氏の報告。
(20)「アジア放送研究月報」1987年1月号の須賀哲氏の報告。
(21)1986年12月25日の共同通信英文ニュースの報道。
(22)1977年3月に近藤哲也氏が「解放軍之声」を受信している(「アジア放送研究月報」1986年11月号)。
(23)「短波」誌1983年6月号の浦本貴正氏の報告。
(24)「アジア放送研究月報」1984年2月号の青木茂紀氏、今野直樹氏の報告。
(25)「アジア放送研究月報」1983年7、9月号、1984年2月号の青木茂紀氏、今野直樹氏の報告。
(26)「アジア放送研究月報」1984年5月号の日向勇美氏の報告。
(27)その後は1988年2月28日と11月11日の受信記録があるのみ。「アジア放送研究月報」1988年5月、12月の各号。
(28)「アジア放送研究月報」1985年7、8月号の日向勇美氏の報告。
(29)「アジア放送研究月報」1985年6月号の日向勇美氏の報告。
(30)「アジア放送研究月報」1989年9月号の近藤哲也氏の報告。
(31)近藤哲也氏が7月31日に受信。「アジア放送研究月報」1989年9月号の近藤氏の報告。
(32)「アジア放送研究月報」1991年8月号に西田邦浩氏の受信報告がある。
(33)「アジア放送研究月報」への近藤哲也、高嶋秀敏、山下透の各氏の報告。
(34)"Radio Power" by Hale (1975) p.111, "International Radio Broadcasting" by D.Browne (1982) p.241, "Clandestine Confidential" by G.Dexter (1984) p.47 また、1974年11月6日付の朝日新聞の記事に「ロイター電によると、ソ連は中国人亡命者による特別放送局を持っている」という一節がある。
(35)「アジア放送研究月報」1988年4月号の西田邦浩氏の報告。 
(36)1983年11月7日、17:13~17:37に9268kHzで「何日君再来」など音楽だけを流す局を鳥居英晴氏が受信している(「アジア放送研究月報」83年12月号)。地下放送の試験放送とみられ、台湾関与説を裏付ける有力証拠である。


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中国地下放送周波数リスト


kHz   局名   出現•発見時期

 995  紅旗広播電台(71~86•11•29)
1235  中国人民之声(79•5~89)
5000v  偽中央人民広播電台(77、81、82)
5010v  偽中央人民広播電台
5020v  偽中央人民広播電台(76、81)
5050v  偽中央人民広播電台(80、81)
5060v  偽中央人民広播電台(78、79、80)
5200v  偽中央人民広播電台(79、81)
5300v  偽中央人民広播電台
5710v  偽中央人民広播電台
5945v  偽中央人民広播電台(81•7)
6000v  偽中央人民広播電台(74、76、80、81)
6015v  偽中央人民広播電台(75、80)
6050v  偽中央人民広播電台(81)
6070  新聞与音楽電台(71•9~72•5)
6085  中国共産党広播電台(68~71•4)
6190  解放軍積極分子戦闘兵団広播電台(68•10•26)
6900v  偽中央人民広播電台(81、82)
6990v  偽中央人民広播電台(80、81)
7085  局名なしの文芸局(71•7~71•9)
7105  解放軍積極分子戦闘兵団広播電台(70•7•8)
7125  紅軍広播站(75•1•8)
    民主広播電台(89~91)
7155  新聞与音楽電台(71•9~72)
7165  火花(台)(67~72、74•5~75)
     解放軍之声(67~、 74•5•4~75)
    無産者戦闘師(74~ 75)
7170  火花台(77~83•3)
    解放軍之声(77~83•3)
    無産者戦闘師(77~83•3)
7175  紅軍広播站(72•7•19)
    十月風暴広播電台(78~)
7185  火花(台)(67~72、83•3~84•3)
    紅軍広播站(72~76)
    解放軍之声(67~72、83•3~
    無産者戦闘師(83•3~84•3)
    十月風暴広播電台(83•5~84•4)
    偽中央人民広播電台(83•5~84•4)
7190  紅軍広播站(74)
7200v  偽中央人民広播電台(81)
7210  紅軍広播站(74、75)
7215  紅軍広播站(75)
7245  紅軍広播站(72•9•23)
7260  紅軍広播站(75•1•20)
7275  火花台
7280  紅軍広播站(72•7•18)
7285  解放軍之声(67~72、77•8~83•3)
    無産者戦闘師(72~83•3)
    火花台(74~83•3)
    紅軍広播站
7290v  偽中央人民広播電台(81、82)
    火花台(77)
    解放軍之声(74•5•4)
7300v  偽中央人民広播電台(75•6)
    紅軍広播站(74~75•4•2)
7305  真正代表無産階級的工農電台(70•4•11)
7500v  偽中央人民広播電台 
7520  無産者戦闘師(75~)
    火花台(75~)
    解放軍之声(75~)
7525  無産者戦闘師(68•12•3~84•4)
    火花台(75~84•4)
    解放軍之声(74•4•11~84•4)
    十月風暴広播電台(83•5~84•4)
   v  偽中央人民広播電台(74•5•1、82•3•26~)
8057  民主之声広播電台(90~91)
9000v  偽中央人民広播電台(82•6•11)
9150v  偽中央人民広播電台(82•1•15)
9200v  偽中央人民広播電台(76•3•22)
9267  偽中央人民広播電台(~84•4)
    火花台(83•3~84•4)
    無産者戦闘師(83•3~84•4)
    解放軍之声(83•3~84•4)
    十月風暴広播電台(84•3~
9510  紅軍広播站(74•11•10)
9530  紅軍広播站(74~75)
9570  紅軍広播站(72•9)
    新聞与音楽電台(71•9~72•1)
9600  火花(67~)
    解放軍之声(71、74•5•4)
    無産者戦闘師(74•4)
    紅軍広播站(72•7、9)
9640  紅軍広播站(73、74•6•22)
9656  十月風暴広播電台(79)
9660  解放軍之声(67~71、83~84•4)
    火花台(84~85•5•31)
    無産者戦闘師(83~84•4)
    十月風暴広播電台(83~84•4)
    偽中央人民広播電台(83~84•4)
9674  十月風暴広播電台(79)
9705  戦闘師(74•10)
    紅軍広播站(75•10•14)
9715  無産者戦闘師(74•10)
    十月風暴広播電台(79•1)
    紅軍広播站(73•1)
11280  局名なしの文芸局(71•7~71•9)
11320  中国共産党広播電台(70•4~71•4)
11725  解放軍之声(71•11)
11735  局名なしの文芸局(71•7~71•9)
11795  解放軍之声(67~72)
12120  八•一電台(79•3~86)
15050  紅軍広播站(74•6)
15055  解放軍之声(69~72)

vは周波数が変動することを示す

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対中地下放送年表

対中地下放送年表


1966年 5月7日   
毛沢東、林彪あて「5•7」指示。文化大革命開始
   12月半ば  
「火花」「解放軍之声」が放送開始
1967年 7月    
武漢事件
1968年 2月26日  
「中国共産党広播電台」の存在確認
   10月26日  
「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台」が出現
   12月3日   
「無産者戦闘師」の存在確認
1969年 3月2日   
中ソ、珍宝島で軍事衝突
    4月    
九全大会、党規約で林彪を後継者に明記
1970年 4月11日  
「真正代表無産階級的工農広播電台」が出現
    7月2日   
局名のない文芸局出現
1971年 4月ごろ  
「中国共産党広播電台」姿消す
         
「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台」姿消す
    5月ごろ   
「無産者戦闘師」、「戦闘師」に改称
    7月16日  
ニクソン訪中計画を発表
    9月ごろ
局名のない文芸局姿消す
    9月11日  
「紅旗広播電台」の存在確認
    9月13日  
林彪事件。林彪、モンゴルで墜死
    9月28日  
「新聞与音楽電台」の存在確認
   10月25日  
国連総会、中国招請を決議
1972年 2月    
ニクソン大統領、訪中
    3月23日  
「紅軍広播站」の存在確認
    5月ごろ  
「新聞与音楽電台」消える
1972年~73年   
「火花」「解放軍之声」「戦闘師」の活動低下
1974年 1月    
「批林批孔」運動開始
    4月   
「解放軍之声」「無産者戦闘師」「火花台」が新形式で放送開始
    5月1日   
偽「中央人民広播電台」の存在確認
1975年 1月    
トウ小平、党副主席に就任
1976年 1月8日   
周恩来、死去
    4月    
天安門事件、トウ小平解任
    9月9日   
毛沢東、死去
   10月6日   
「四人組」逮捕
1978年      
「十月風暴広播電台」が出現
1979年 2月17日~3月15日 
中越戦争
    3月3日   
「八•一電台」が出現
    5月    
「中国人民之声」の存在確認
1980年11月20日 
「四人組」裁判開始
1982年 5月    
中国、妨害電波発射停止
1984年 3月19日  
「無産者戦闘師」最後の放送   
    6月5日
中国、妨害電波発射再開
1985年 6月    
「火花台」が活動低下
1986年11月29日  
「紅旗広播電台」最後の放送
   12月ごろ
「八•一電台」放送を停止
1989年 6月4日   
天安門事件
   6月  
「解放軍之声」「十月風暴広播電台」偽「中央人民広播電台」「中国人民之声」が活動停止
    7月~1991年 
「民主広播電台」が出現
1990年8月~1991年6月
「民主之声広播電台」が出現

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地下放送再録

地下放送再録


林彪事件は四人組のデッチ上げ 
「八•一電台」1981年9月13日放送
建軍56年を祝う
「八•一電台」1983年8月1日放送
七•七事件47周年
「八•一電台」1984年7月7日放送
盧山会議25周年
「八•一電台」1984年7月14日放送
子供を救え!
「火花台」1983年10月6日放送
トウ小平はかつて何といったか
「無産者戦闘師」1984年1月2日放送
小米加歩槍
「解放軍之声」1983年12月4日放送
決していつまでも平穏無事ではない
「紅旗広播電台」1986年4月8日放送
真の主人公の座を勝ち取ろう
「中国人民之声」1983年1月1日放送
共産党を打ち倒そう
「民主広播電台」1989年8月21日放送

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林彪事件は四人組のデッチ上げ


   「八•一電台」1981年9月13日放送 


 光陰矢の如し。既にちょうど10年たった。10年前の1971年9月13日、四人組総局は林彪を殺害した。それは秘密のうちに行われた。四人組は、林彪が反革命の陰謀を企み、毛主席の暗殺を企てたという作り話をデッチ上げた。しかし事実は、林彪はずっと忠実な毛主席の親密な戦友であり、一貫して毛主席の話を聴き、毛主席の革命路線を堅持し、忠実に毛沢東思想を貫徹してきたのである。
 今から皆さんに、本当の林彪の講演の録音をお聞かせする。林彪がどのように毛沢東思想を受け継いでいたかを聞いて下さい。
 (林彪)「われわれは毛主席の指導により、毛沢東思想を革命の精神としている。プロレタリア文化大革命のために力を尽くして前進しよう! 今回のプロレタリア文化大革命は毛主席の指示に基づいている。毛主席は素晴らしい革命家であり、偉大なプロレタリア階級の思想家である。文化革命は既に前進発展し、既に偉大な革命となっている!」
 皆さん! 当時の党の指導者は皆、林彪が毛主席の親密な戦友であり、後継者であると承認している。毛主席も林彪が親密な戦友であり、後継者であると信じていた。毛主席が自ら林彪を指定して九全大会で政治報告をさせたことは誰でも知っていることではないか!
 次に、毛主席と林彪の講演の録音を聞いて下さい。
 (毛沢東)「私は、今回の代表大会が立派に進行し、団結の大会、勝利の大会となるよう希望する。林彪同志が中央を代表して政治報告をおこなう」
 (林彪)「われわれの今回の代表大会は、わが党の歴史において深遠な影響をもつ代表大会となるであろう。今回の代表大会は、毛主席の自ら起こし指導しているプロレタリア文化大革命が偉大な勝利を収めた時に開かれたものである」。事実が証明しているように、毛主席に基づくものは、九全大会の中に明確に定められている。即ち、林彪同志は一貫して毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げ、毛沢東同志のプロレタリア革命路線に最も忠誠であった、ということである。林彪同志は毛沢東同志の親密な戦友であり、後継者でもあった。
 林彪が10年前、突然毛主席に対して陰謀を企て、暗殺しようとしたなどということは、まったく根も葉もないデタラメの作り話である。四人組こそ腹黒く残虐に誹謗しているのである。
 問題なのは、四人組が最も軍隊を恨み、わが軍の指導者と部隊の幹部を恨んでいることである。四人組は、軍隊と軍隊の幹部に打撃を与えるのに都合がよいように、林彪がやったとデッチ上げたのである。林彪が被害を受けて既に10年になった。しかし、この歴史上の問題は、いまになっても得ることろや公正な解決がない。
 中央のある者は引き続いて、デッチ上げられた林彪事件を利用し、部隊や幹部を迫害している。わが軍にとって、四人組が作り出した林彪デッチ上げ事件は必ず解決しなければならない最大の歴史上の問題である。われわれ全党、全軍、各全国人民は徹底してデッチ上げられた林彪事件を間違いだとしなければならない。   
(「アジア放送研究月報」81年11月号 林徹訳)




建軍56年を祝う

 
「八•一電台」1983年8月1日放送 


 中国人民解放軍が建軍してまる56年になった。数十年来、わが軍は激しい戦いの環境の中で、また国内国外の敵と長期にわたる格闘の中で、たゆまぬ成長を遂げた。人民解放軍がなかったならば、人民革命の勝利という輝かしい歴史及び人民の政権、社会主義祖国はあり得なかったであろう。われわれの党の革命の歴史と人民解放軍とは、切っても切り離せないものである。建国後、わが軍は社会主義祖国の建設を護ってきただけでなく、文化大革命を終らせ、四人組を粉砕したなど、それぞれの大きな歴史の分岐点の時期に、国家人民の利益を堅固に護ってきた。 
 まさに四人組が全国で横暴な振舞いを行っていた時期に、解放軍がこの重要な時期に出てきて制圧を加えなかったならば、国家と人民は必ずや大きな災害を被ったに違いない。さらにトウ小平、胡耀邦、彭真などを含む現在の多くの中央の指導者は劉少奇、彭徳懐などの同志が受けたような迫害を受けた可能性は十分あったかもしれない。
しかし、まさにこの時期にも、わが軍指導者及び軍隊の各級幹部は、わが軍歴史以来の最大の屈辱を受けた。軍隊の各級幹部は繰り返し粛正や清洗を受けた。最近出版された「トウ小平文選」の中からも見い出せる。その中で最も多く語られているのが軍隊や幹部の整頓である。まさに全党全国が毛沢東•四人組が作り上げた冤罪事件•デッチ上げ事件の被害者を再審理し、無罪としたとき、四人組が軍隊の中で作り上げた数知れぬほどの冤罪事件•デッチ上げ事件に対しては、再審や改正は行われなかった。
 最も憤慨すべきことは、中央の某人が人民解放軍の威信を損なうために、軍隊の国家政治生活における役割を低く評価し、わが軍指導者幹部の政治地位を揺るがし、甚だしきに至っては、四人組と激烈なる闘争を行った元軍主要指導者を、国を災いし民を損なった江、王、張、姚、反革命集団と同時に公判にかけたということである。
 現在まで整党整風運動を行ってきた過程の中で、依然として多くの復員した軍隊の幹部を重点としている。このようなことでは、軍隊の多くの幹部を迫害し、中央のある指導者に対する信任が軍の団結や軍内部の団結に影響を与えることになる。従って、軍隊の戦闘力にも影響を与えるということになる。そして、いまちょうど、米帝が急速に全地球に戦略配置をし、世界平和やわが国の安全をひどく脅かし、積極的に台湾を武装させ、命がけで祖国の平和的統一を妨げている状況のもとで、軍隊幹部を迫害し、軍隊の安定団結を破壊している。実際、これは祖国や人民に対する犯罪行為である。
(「アジア放送研究月報」83年9月号 武谷智訳)




七•七事件47周年


「八•一電台」1984年7月7日放送 


 七•七蘆溝橋事件から既に47年たった。しかし、われわれは日帝がこの日にわが国への侵攻を開始し、侵略戦争を発動したことを永遠に忘れることは出来ない。鬼畜日本が起こした8年間の戦争で、わが3400万同胞は前線で、また後方で飢餓や疾病に陥り、生命を奪われた。いま、ある者がいわゆる中日友好を守るため、われわれに歴史事実、残酷な8年の抗戦、数十年の長さにわたる日帝のわが国に対する軍事•経済侵略を忘れさせよううと企んでいる。
 現在、ある者が「21世紀の中日友好」「両国青年の交流」及び「中日両国人民のいわゆる共同利益」などということを口にしているが、これらの者は目が開いていながら見えていないのと同じである。日本の政治権力者は決して人民ではなく、反人民の反動派であり、日本旧軍国主義の継承者である。彼らはいま、日本当局が軍国主義の復活や大規模な経済拡張政策を行っているのも正視したがらないようだ。
 いま、米帝と緊密に結託している日本軍国主義の軍事力は急速に増しているということは事実が証明している。現在、復活した日本軍国主義が既に無視できない力にまで達しているという事実を一人一人が意識しなければならない。日本軍国主義はアジアやわが国の人民に対しても実際的な脅威である。例えば、日本軍国主義の侵略軍は、わが釣魚島を占領しているのである。さらに、日本当局は海軍が千カイリの海上権を有し、必要な時には海上封鎖をするということを公言している。日本軍国主義の恥知らずの覇権主義計画は、直接わが国の安全に脅威を与えている。
 このほかさらに、日本は資源の乏しい国家であるということも考えねばならない。日本はいちずに、いわゆる生命地域を争って占拠している。軍事手段を使うのみならず、いろいろな経済手段を用いて隣国を制圧し、一方でその自然の富をさらっている。今日、日本の支配集団はわが国の経済に対して影響力を加えている。いま、わが国と日本の貿易額は、わが国の外国貿易総額の25%を占めている。わが国のいくつかの沿岸都市は日本の租借地に変わろうとしている。
 さらに、日本の支配集団は地下資源の実地調査など、わが国保証の特別許可を手にし、得た資源を日本に運んでいる。これらの事実は日本の支配集団がいまだに古い夢を追い求めているということを説明している。われわれはこの危険性を決して軽視できないし、さらに中国人民の歴史的不具戴天の敵、新日本軍国主義のわが国に対する実際的脅威をなおざりには出来ない。わが国の諺に「前のことを忘れなければ、後の戒となる」というのがある。七•七事変47周年に際し、わが国は悲痛な歴史の教訓をさらに肝に命じなければならない。さもないと、祖国と人民の利益に重大な損失をもたらすことになる。
(「アジア放送研究月報」84年8月号 武谷智訳)




盧山会議25周年

       
「八•一電台」1984年7月14日放送 


 25年前、盧山会議で彭徳懐同志は、国を誤り民を損なった極左路線と激烈なる闘争をした。当時、つまり1959年7月14日、彭総は毛主席に著名な意見書を手渡した。彼はこの中で多くの事実を挙げた後、大躍進などの誤った方針が作り出した重大な結果を指摘した。人民を苦難から救うため、彭総は直ちに誤りを正し、八全大会の正しい路線に戻すよう要求した。彭総のこの正しい立場は、彼の親密なる戦友、黄克誠、張聞天、周小舟らの同志の支持を得た。\n 今日、これらの歴史事実を思い起こす時、わが軍の指戦員は、わが軍の優秀な代表、彭徳懐、黄克誠ら同志が先ず立ち上がり、人を害した極左路線と激烈なる闘争をし、国家と人民の利益を勇敢に守ったということを自信を持って言うことが出来る。彼らの行動は、わが軍の指導者が軍事問題のみならず、思想や経済問題の処理にも長じ、わが国の対内外政策の重要問題に対して自己の見解を発表し、正しく意見を出し、解決する方法を提出することが出来るということを示している。
 わが軍の指導者を締め出し、彼らに国家の事務の処理をさせない彼の一握りの者はわが党わが軍の伝統に違反し、重大な間違いを犯した。残念なことは25年前、盧山会議で多くの中央の指導者たちが、軍隊の指導者と一緒に極左路線に反対する勇気がなかったということである。特に心痛せしめることは、当時の党中央総書記トウ小平同志が盧山会議の直前、彭徳懐同志に彼の極左路線反対の発言を保証し支持したが、トウ小平同志が毛主席の怒りに触れるのを恐れて、仮病を使って盧山会議に出席しなかったということである。
 もし当時、トウ小平同志が党中央総書記の人望で彭徳懐同志及び彼の戦友を支持していたら、諸悪の根源たる三面紅旗の方針に批判を加え、打倒することが出来、文化大革命を発生させず、国家に損失をもたらさず、人民が犠牲にならずに済んだかもしれない。
 しかし、彭徳懐同志と彼の戦友の盧山会議で極左路線と行った闘争は、トウ小平及びその他の中央の同志の支持を得られず、国家と人民は災難を受けたのだ。われわれは悲痛な歴史の教訓の中から、将来のために正しい結論を出し、敬愛する彭老総を模範とせねばならない。どんな時にでも、誤った方針には勇敢かつ、しっかりした、揺るぎない反対をせねばならない。誤った方針が、たとえ最高権威の提示したものでも、もし国家人民の利益に損害を与えるようなものであれば、断固反対すべきである。
 彭徳懐同志の親密な戦友、わが軍の指導同志、それに全軍の指戦員は、彭老総の教えにしたがい、人民に服務し、死をも恐れぬ気持ちで国家と人民の利益を守らねばならない。
(「アジア放送研究月報」84年8月号 武谷智訳)




子供を救え!

 
「火花台」1983年10月6日放送 


 同志諸君! 青年諸君! 刑法と刑事訴訟法が公布されてから、わが国の宣伝部門は法制問題に関する宣伝教育を全面的に展開し、法があればそれに従い、法を執行するには必ず厳しくあらねばならず、善人を冤罪に陥れてはならず、悪人を放っておいてはならぬことを強調した。死刑執行の問題を持ち出す場合、宣伝上は次のようにいった。
 「死刑は国家が犯罪者に対して取る最も厳しい懲罰手段であり、特に慎重でなければならない。わが国の刑事訴訟法では、死刑案件の判決は一般案件の審理順序による以外に、高級人民法院の再審査、最高人民法院の審査批准を経て、初めて法律的効力を生ずると規定されている。現在、わが国はいまだ死刑を廃止できないし、すべきでもない。しかし、その適用は出来るだけ減らすべきである。死刑を少なくする方針貫徹のため、刑法の死刑に対する適用範囲は厳格に抑えられ、明確に規定されている。死刑は最も悪質な犯罪分子続きにのみ適用される。死刑再審査は、最も悪質なものを死刑に処することだけでなく、無辜の公民や犯罪行為が死刑に値しない者が誤って死刑とされることを防ぐためのものである」
 しかし、この言葉がわれわれの耳を離れもせぬうちに、いたるところで大々的に死刑が行われている。このまま殺人を放置しておくのだろうか。かつて実権派は「刑法と刑事訴訟法の精神は死刑を少なくする方針の貫徹であり、死刑の判決は特に慎重でなければならない」といった。しかし現在、実権派は「重く罰し、早く罰し、懲らしめ処分する方針を実行しなければならず、逮捕すべきは逮捕し、判ずべきは判じ、労働改造すべきは労働改造し、戸籍抹消すべきは戸籍抹消しなければならず、決して手心を加えてはならない」と叫んでいる。このような朝令暮改的やり方は実権派がかつて宣伝した「法律の厳粛性と安定性を保たねばならない」ということになるのだろうか。
 トウ小平集団の言うことと、することが別であるということは人民大衆は、はっきりと分かっている。宣伝上は「政治運動にはしない」といったが、実際は大いに政治運動を行っている。宣伝上は「死刑を少なくする方針を貫徹する」といったが、実際は多くかつ早く死刑にする方針を取っている。このようなやり方で、どうして人民の信用を得ることが出来よう。現在、全国の津々浦々で大衆の宣判大会が行われ、その場で死刑が行われている。数十人、数百人が一度に集団的に殺されている。一組殺しては、また一組。無辜の公民がどれだけ誤って殺されたか。革命の原則を堅持する同志がどれだけ反革命とされたか。民主を勝ち取ろうとした青年がどれだけ逮捕、投獄、戸籍抹消され、労働改造のため辺彊へ送られ、甚だしくは若い人々の生命が犠牲とされたか数知れない。
 毛沢東個人の独裁時代、四人組横行の時期、文化大革命の旗の下、人倫は地に落ちた。現在、トウ、胡、趙集団は犯罪分子を攻撃している。こうした口実の下、全面的かつ強力に人民を捕らえ、殺しておきながら、実権派の鼓吹するところの法治とは一体如何なるものであろうか。それは人民の民主権利を守る法治ではなく、徹頭徹尾の社会ファシスト独裁法治である。この下では、法があってもそれは無くに等しく、人民はさらに災難に遭わねばならない。全党、全国人民は等しく強烈な願いを抱いている。それは健全な民主と法治である。
 第六期全人代第一回会議で黒竜江高級法院院長張厘は「現在もなお、人治を重んじ、法治を軽んずる現象が存在している」と述べ、甘粛省省長陳光毅は「各級の指導幹部は法治観念をとりわけ強めねばならない」と述べた。われわれはかつて、長官の意志を持って法律に代えることを習わしとしてきた。いまは法律を制定、公布し、刑法と刑事訴訟法とを有することとなり、どうなったであろうか。依然として、法があってもこれによらず、人治を重んじて法治を軽んじ、長官の意志をもって法律に代えているのである。
 余りあてになる話ではないが、トウ小平一味がある視察に出かけた際、その途中で、人々が殴り合い、騒いでいるのに出くわした。そこで、これを厳しく罰するよう命じたが、刑法と刑事訴訟法によるのではなく、犯罪を迅速かつ厳重に罰するための二つの決定を行い第六期全人代常務委第二回会議で通過、施行させたという。これは人治を重んじて法治を重んじず、長官の意志をもって法律に代え、他人の意見を容れず、家長が家を治めるという態度の具体的現れである。トウ小平文選学習運動は、トウ小平がまたもや個人崇拝を大いに行い、家長が家を治めるという態度を大いに行おうとしていることの確かな証拠である。こうした状況の下で、民主と法治が本当に行えるのだろうか。過去と同じく、新しい憲法、法律は統治集団が公民の権利を破壊し、人民を欺くための、己の恥を覆い隠す布となっている。
 同志諸君! 青年諸君! いま、全国各地で死刑が行われており、殺され、懲役に処され、戸籍を抹消され、労働改造のため辺彊へ送られている者は、大多数が青少年である。従って、青少年はいまや犠牲の世代と相成り、トウ、胡、趙集団は、いまや全国青少年の討たずばやまぬ仇敵と相成った。ここでわれわれは魯迅の言葉を引用して、このスローガンを発する。「子供達を救え!」 
(「アジア放送研究月報」83年12月号 西田邦浩訳)




トウ小平はかつて何といったか


「無産者戦闘師」1984年1月2日放送 

 
 同志諸君! 1979年3月25日、北京の地下活動家、魏京生は雑誌「探索」の中の「民主が要るのか、それとも新しい独裁が要るのか」という論文の中で、「トウ小平は民主を必要としているか」という問題を取り上げた。この魏京生の文章が指摘しているように、トウ小平は75年に復職した後、「人民の利益を重点に据なければならない」といっているし、彼がまだ奪権していないとき、彼は思想の解放、民主の発揚に関する談話も発表した。ここで過去にトウ小平が公民の権利の問題についてどのようににいったか、ということを一緒に振り返ってみよう。
 1978年11月28日の北京発の新華社の情報によると、トウ小平副総理は26日午後、日本の佐々木良策民社党委員長が出した「中国国内の情勢に関する問題」について談話を発表した。壁新聞問題を評論することに関し、トウ小平副総理は「これは正常な現象であり、わが国の情勢が平穏である一種の表現である」と指摘した。また、「壁新聞を張ることは、わが国の憲法で許されていることだ。われわれは大衆が民主を発揚し、壁新聞を張り出すことを否定したり、批判したりする権利はない。文化大革命という鍛錬を通じ、わが国の大衆は物事の良し悪しを見分ける能力を身に付け、国家の運命に関心を持つ自覚が出来た。これは大したことである。広範な大衆は安定団結を要求しており、大勢に万全を期している」と述べている。
 1978年11月26日夜、トウ小平は胡耀邦の付添いの下で、北京地質学院、北京大学、清華大学、航空学院などで壁新聞を参観し、各校の教師、学生と壁新聞の掲示や民主の法制などの問題を話し合った。トウ小平は北京の地質学院の教師、学生に答えて、「工場、機関、学校、農村、人民公社のどの分野であろうと壁新聞の威力を十分に発揮させねばならない。党の各級指導者は大衆が壁新聞を張り出すことを励まし、支持している。決して弾圧しないし、壁新聞で批判する人に対し攻撃したり、報復するのは絶対に許さない。もしも、そのようなことが起きたら、きっと厳重に処罰されるはずなので、君達は党中央に直訴したり、私に手紙を書いてもよい。そうすれば、きっとすぐに処するようにしよう。みんな安心してほしい。私は憲法がすべての公民に与える権利をきっと実現することを君達に保証しよう」といった。
 トウ小平は過去に「大衆が壁新聞を張るのを励まし、支持し、決して弾圧を加えたり、打撃、報復をしてはならない」といった。しかしいま、トウ小平の保証は実現したか? 実現してないばかりか、壁新聞を書き、批判した人に対して、弾圧、打撃、報復を行っている。党の第十一次五中全会の決議の中でも、憲法第45条中の「公民が四大民主、すなわち、大鳴、大放、大字報、大弁論を運用する権利を持つ」ことに関する規定を取り消すことを決定した。
 これこそが魏京生の指摘した「トウ小平は民主を必要としているか」ということなのだ。不要なのだ。彼は野心家で、その集団によって占有された権利を人民に奪われることを望んでいない。人民に広く展開した中国民衆権利の運動に対して、彼は弾圧という手段を取った。このことは彼が人民の運動を非常に恐れているということを物語っている。1979年7月20日、北京のある人が「トウ小平はかつて何をいったか」という論評を出た。トウ小平は「人民が壁新聞で討論を展開し、壁新聞で問題を解決するのは必要なことだ」といつた。しかし、壁新聞が民主の壁を探索し、人権を要求し始めたとき、トウ小平はこれを阻止し、民主の壁の壁新聞が国家機密を漏らすと警告したり、各地の公安局に民主運動を弾圧するよう命令している。人民は壁新聞で大衆に呼び掛ける権利を失ってしまった。民主の壁事件を振り返ってみると、民主運動が弾圧を受けたというのは皆、トウ小平一派の仕組んだものだったことが分かる。
 同志諸君!トウ小平の過去の言論とそれ以後の実践を調べてみると、現在のトウ小平文選学習に対し、非常に現実的な意義があり、教育の作用もある。人民や幹部は、それでもなおトウ小平を信じることが出来るだろうか。トウ小平文選というものが目前の整党や四つの現代化建設の前途に対して、なおどんな正しい意義があるのだろうか。 
(「アジア放送研究月報」84年2月号 武谷智訳)




小米加歩槍


「解放軍之声」1983年12月4日放送 


 全国の軍、幹部、大衆同志諸君! われわれが台湾の国民党当局に対して「三通四留」「九つの建議」(注1)を打ち出し、台湾の厳しい拒絶にあって以来、われわれはずっと良い方法を考え出せなかった。それどころか、香港問題でわれわれは焦りを見せたため、香港のあらゆる資本家と、われわれを喜ばぬ香港同胞をxxさせることとなった。これは自分の首を絞める愚かなやり方であり、国際上及び海外華僑社会の中での台湾の勢いをさらに大きくすることとなってしまった。
 人は皆、「香港人民さえ、共産党の統治を受けることを望んでいない」といっている。また、どうして台湾人民がわれわれを嫌うのを責められよう。敵と統一戦線を組むことはスケートと同じである。歩調が一たび乱れれば、前へ進まず、後ろへ転ぶ。われわれは既に指導的地位を失い、あちこちで国民党が音頭を取っていることを、いまわれわれははっきりと感じている。われわれがこの見方を打ち出すのは、少なくとも次の二つの点によるものである。
 第一点は、国民党がわれわれに圧力を加えていることである。彼らは、わが軍、幹部、大衆が共産主義の社会制度に対して疑念、失望を抱き、党の指導に対して完全に信用をなくす機会をxxするや否や、「三民主義で中国を統一する」という主張を打ち出した。党の各級指導者は頭を抱え、人民は喜び、救世主がもうすぐやってくると考えた。この現象に対して、わが党中央は主要な責任を負わなければならない。
 われわれは過去数年間、台湾と統一戦線を組むために慌てる必要はなかった。台湾の近代的な工業製品が大量に流れ込み、人々の変転思想を鼓舞することとなってしまった。国民党には実は方法があり、三民主義はやはり共産主義より良いのだという観念は、既に広範な軍、幹部、大衆の頭にしみつき、永遠に消え去らないといえよう。これが「共産主義渺茫論」の根源である。党中央は、このような間違った主義を引っ張り出した張本人が誰か、徹底的に捜し出すべきである。
 第二点は、わが党に人材がいないことである。過去に「小米加歩槍」(注2)で国民党と戦い、国民党が敗れたものだから、われわれは得意になって「小米加歩槍」が国民党を負かしたと思っている。実はそのことだけでない。もし、われわれが抗戦勝利の後、機会を利用して、社会混乱を起こし、さらにソ連がわれわれの背後で増援し、彼らの手から東北を占領しなかったなら、われわれは勝利できなかった。毛主席とトウ小平同志は日本人に礼をいったことがあるだろうか。もし、日本の皇軍が出兵し、中国を侵略しなかったならば党中央は永遠に延安を出られなかったかもしれない。事実を認めないことは、自らを欺き、人を欺くことである。一つの偉大な党は、真理にに対して頭を下げる勇気を備えていなければならない。
 「小米加歩槍」が国民党を破ったという観念は科学的でなく理知的でもない。今日までずっとわが各級指導同志は未だそれを事実と信じ、また過去に「小米加歩槍」で国民党を破ることが出来と信じていたため、いまも得意満面に、石頭を抑えられるペテンと口一杯のホラが国民党を倒すことが出来ると思っている。そして、他の方法と理由をまったく考えていない。二年前、誰がこの年を辛亥革命七十周年とすると考え及んだであろう。いま思うに、自らやっておいて恥しくなる決定である。
 われわれは辛亥革命が国民党創始者孫中山先生の指導したものであることを知っている。われわれは抗戦さえ国民党が指導したものであると認めていない。いま、国民党が「三民主義で中国を統一する」という主張を打ち出したのは、われわれが辛亥革命を記念したことに影響を受けたからだと思われる。彼らはこう思っているに違いない。「君ら共産党は辛亥革命の記念を行った。辛亥革命は孫中山先生が指導したものだ。われわれはいま、孫中山先生発明の三民主義で中国の統一を行うことを打ち出した。民主主義の観念下では、当然、君らの外国から入ってきたマルクス•レーニン主義よりxxだ」。
 事実、われわれは何も言えない。われわれ自身は既に「共産主義渺茫論」があり、「三信危機」があることを認めている。そして、台湾には「三民主義渺茫論」「三信危機」があるとは言えない。われわれはいま、近年台湾に「三民主義渺茫論」があるといった嘘は言えない。またどうして、われわれの「三通四留」「九つの建議」を相手にしない国民党を責められよう。
 塀はいつしか倒れ、家はいつしか倒れ、蟻は住むことが出来なくなる。われわれ自身が憤らねば、実は他人に顔向けが出来ないのである。
(注1)1981年9月30日付けの葉剣英談話を指す
(注2)質素な食料と粗末な武器        
(「アジア放送研究月報」84年2月号 山中明、西田邦浩訳)




決していつまでも平穏無事ではない

       
「紅旗広播電台」1986年4月8日放送 


 先ず皆さんに現指導者のxxを聞いていただきたい。ある指導者いわく、「われわれの改革が資本主義にまで行ってしまうのではないかと心配している人がいるが、それは肯定できない。われわれの政策が階級分化にまで至ったなら、それは失敗だ。もし、新しいブルジョワジーを生むことになったなら、われわれはxxしたことになる。現行の政策は、一部の人が先に豊かになることを許しているが、新しいブルジョワジーや大富豪が生まれ続きることはあり得ない」と。ある指導者いわく、「農村で階級分化が起こるかもしれないと心配している人がいるが、私は心配無用だと思う」と。しかし、事実が証明するように、その心配無用の筈の事態が遂に起こった。農村だけでなく、都市でもたくさん起こっている。
 ここで尋ねたい。十数台ものトラックを有する運送屋の主人は、資本家と考えるのかそうでないのか。大型のトラクター、トラック、「収割機」を十数台有する者は、資本家と考えるのかそうでないのか。工場、農場、商店を網羅した巨大なトラスト、農工商業連合体を有する者は、資本家と考えるのかそうでないのか。機械化なった近代的な工場を有する者は、資本家と考えるのかそうでないのか。500余人の炭鉱xxx隊を有する者は、資本家と考えるのかそうでないのか。すべて資本家と考えるべきである。すべて正真正銘の資本家である。
 これら正真正銘の資本家は、その所有する固定資産と流動資金は少ないもので70万元、多い者は200万余元。雇っている労働者は少ないもので10人、多いものは500余人にも達する。彼らの資産のうちには、自らの肉体労働、頭脳労働によって得たものは一つもない。彼らは典型的な搾取者である。そして彼らに雇われている労働者は典型的な被搾取者である。社会には搾取者と被搾取者が出現した。
 冒頭で紹介したその指導者は「われわれの政策が階級分化にまで至ったなら、新しいブルジョアジーを生むことになったなら、われわれはxxしたことになる」と述べた。搾取階級と被搾取階級とが復活すれば、闘争を免れることは出来ない。いま中国の社会に大きな動乱も起こっておらず、平穏無事であるかもしれない。しかし、決していつまでも平穏無事ではないであろう。
(「アジア放送研究月報」86年5月号 西田邦浩訳)




真の主人公の座を勝ち取ろう


「中国人民之声」1983年1月1日放送 


 北京日報の報道によると、北京市人民政府は最近、合同工(注1)の待遇を落とすことを決定した。本放送局の論説員は次のように指摘している。
 合同工とはいえ、労働者階級であり、生産事業の主人である。現在の政治制度では、固定工(注2)でさえも生産事業の主人たる権利を享受してはいない。合同工もやはり中華人民共和国の公民であるのに、事業においては固定工と差別されている。公明かつ先進的な共産党もこの差別を認めていることは、共産党が労働者階級の真の代表ではないことを証明している。このほど、合同工と固定工との差別待遇に反対して、広範な労働者階級が決起した。ポーランドの労働者と同じように労働組合を結成し、生産事業の真の主人の座を勝ち取ろう。
(注1)臨時工
(注2)常雇工
(「アジア放送研究月報」83年2月号 山中明訳)




共産党を打ち倒そう

 
「民主広播電台」1989年8月21日放送 


 中国共産党は労働者階級を代表する党である。多くの労働者、農民の支持によって共産党は国民党政府を打倒し、政権を奪い取ることができたのだ。だから憲法の中で、我が国は労働者階級が指導する労働同盟によって基本的な人民民主を独裁すると規定しているのだ。しかし中国共産党が政権を取った後、独裁専制の本性を暴露したのである。政治においては、所謂社会主義民主とはまったくの嘘であり、人民にはまったくといっていいほど、民主の権利が与えられていない。社会主義建設や四つの現代化等のスローガンもすべて嘘である。人民の生活はまったく改善されず、改革開放政策の速度を速めてからは、労働者の地位はますます低くなり、生活条件も悪くなっている。給料は上がらず、それに比べ物価だけが上がっていくのだから、生活水準は徐々に下降していくに決まっている。その上、ここ数年「官倒」という問題も起きている。今こそ我々は共産党を打ち倒さなければならないのである。
(「アジア放送研究月報」89年10月号 日向勇美訳)

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