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時田研一:中国の「新左派」「自由主義」論争(1-3)

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发表于 2017-6-4 03:28:07 | 显示全部楼层 |阅读模式
中国の「新左派」•「自由主義」論争――文革の評価をめぐって




時田 研一           


   注:   
 以下は中国における「新左派•自由主義論争」のなかでの文革をめぐる論議の簡単な紹介と若干のコメントを記したものである。今なお「文革徹底否定」が圧倒的な国是である筈の中国でこういう論議が起きていることに驚くが、中国と世界は深部で変わりつつあるわけである。
 この論争の全容の検討と、ことを文革論議に絞った場合でもその評価にとって必要なわれわれわれ自身の今日的な文革の見方については他日を期そう。以下の 簡単な紹介からも窺われるように、そこでなされている論議は他ならぬ日本におけるわれわれ自身の運動の総括と今後にとっても幾つかの示唆を与えるものとなっている。
 なお引用の出展については著者•文章名以外は明示しないが、別記なき場合す べて中文サイトで公開されているものからである。(訳は少々杜撰)






 はじめに


 一九七六年、文革派を打倒し以後二〇年余にわたる「改革開放」の道を歩んできた中国と中国共産党は二一世紀を迎えて新たな相貌を示し出している。
 それを象徴的に示したのが、昨年一二月の中国共産党第一六回大会において江沢民があらためて述べた「三つの代表」論である。
 「わが党は一貫して、中国の先進的な生産力の発展の要求を代表し、中国の先進的な文化の進む方向を代表し、中国の最も広範な人民の利益を代表しなければならない」。
 現在、中国共産党は「三つの代表」論の「偉大な意義」について大々的なキャンペーンに入っており、各領域からの模範入党が報じられている。中国は国を挙げて「偉大な中華民族の復興」(江沢民「第一六回大会報告」)への熱気のなかにあるかのごとくである。
 この「三つの代表」論はこの間の「改革開放」路線が実現した中国の輝かしい発展を受けて提起されたとされている。そこでは一九八九年の天安門事件と九九年の法輪功事件の総括については口は閉ざされたままである。だが統治党とその周囲のイデオローグたちが描き出す光景とは別の声も同じ中国から聞こえてくる。
 資本家層の入党を認めるということは「社会民主党」、「改良主義党」への道だとただちに意見書を提出して抗議した鄧力群ら「党内左派」や「太子党」たちの声もその一つである。また当局によってその発言を封じられアメリカに移住した何清漣はその『現代化の落とし穴』(草思社、2002)において中国の別の現実をリアルに描き出している。
 この「社会民主党への変質」論に対して海外民運派の胡平(「中国民主団結聯盟」主席)は、そんなことではないのだと言う。社会民主主義は少なくとも「社会主義」と「民主」を堅持しているのだが、中国共産党のこの間の変化はそういうものではなく、「一つの全体主義党として、その党員の社会的要素にどんな変化があろうともその全体主義的性格に実質的な影響を及ぼすことはありえない」(「中国共産党の資本家入党の許可を評す」)と言うのがその主張である。
 「中国共産党は戦車と機関銃によって民主運動を鎮圧し、その後は専制的な鉄腕をもって私有化改革を推し進めてきたことにより、政治的には専制と暴虐を、経済的には腐敗と貪婪を一身に集めた怪物へと変化した」。(「中国共産党は社会民主党に変化しつつあるのか」)
 この「三つの代表」論をもって中国はどこへ向おうとしているのかについて北京大学教授の康暁光がきわめて興味ある分析をおこなっている。
 それによれば今日中国共産党は「集権主義体制」から「権威主義体制」へと変化してきており、その「社会的基礎」を成しているは「政治エリート」を中核とする「統治集団」と「経済エリートと知識エリート」との「同盟」なのだが、実のところこの「政治エリート」は誰をも「代表」していないのだと言うのである。
 「『エリート政治』をもって中国政治の本質とすることはできない。実際のところあらゆる政治はエリート政治である。•••中国大陸の『特色』は統治の任務をおこなう党と政府の官僚集団そのものがすなわち統治階級であり、統治集団すなわち統治階級、代理人すなわち委託者というところにある。政治エリートはいかなる階級も代表していない。彼らは一切の階級を凌駕しており、すべての階級に『権威主義』的統治をおこなっている。彼らは只々自己の利益に責任を負っているだけである」。(「今後3-5年の中国大陸における政治的安定性の分析」)
 「いかなる階級も代表していない」統治集団とは一体何者なのか。そしてこれら「統治集団」の実態について康暁光はさらに驚くべきことを述べている。
 「元々のイデオロギーは破産したのだが、新たなイデオロギーはまだ生み出されていない。今日の共産党について言えばマルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想はただその正当性を粉飾するものでしかなく、恥部を隠す役に立たないベールでしかない。その手中にある精神的資源としては『鄧小平理論』すなわち『実用主義』があるだけである」。
 「イデオロギーの終焉は一連の重大な結果をもたらした。その一は中国共産党が『革命党』から『執政党』へと変貌したことである。現在、中国共産党の組織目標は『資本主義を消滅させる』ことではなく、ただただ『執政』あるいは『統治』である。その二は中国共産党の正真正銘の『理性的経済人』への変化である。大統治集団の既得利益を維持ないし拡大できさえすれば、いかなる理論、進路、原則、価値をも受け入れ可能である。その三は個々の党員、幹部たちに道徳なく、理想なく、人生の意義と帰結を知ることもないことである。絶大多数の党と政府の党員および幹部を生活と仕事に駆り立てているのは、人類の最も原始的な生物学的欲望である」。
 「『八九』〔天安門事件〕のあと、中国共産党は政治的反対派の活動と独立した社会組織を情け容赦なく鎮圧した」。 「中国共産党はその極端な専制によって一切の政治的対抗者を消滅させてしまっており、国内で中国共産党に取って代わったり任を引き継ぐ勢力が一つも生まれることがないようにさせた」。
 その結果、「中国大陸で最も重要なのは政府の安定性である。政府が打ち倒されたとき、統治者と彼らが奉じる政策、擁護する現行制度もすべて徹底的に葬り去られるかもしれない。そして政府の不安定は全面的な不安定、たとえば経済の崩壊、社会動乱、民族的衝突、分裂、内戦、ないしは国際的衝突を引き起こす可能性がある」。
 そして一九六三年生まれのこの康暁光は政治的異論派でもなければ、自由派、「新左派」でもなく一人の体制寄りの学者なのである。
 これには批判もある。
 「この分析はジラスの『新階級』理論に依拠したものであり、スターリン――チト-――毛沢東の時代の社会的現実には大体符合しているが、目下の社会的現実には不適応である。まさに康暁光論文が述べているように『八〇年代後期、中国大陸では集権主義体制から権威主義体制への転化が完成した』のである。•••全能主義体制の転型につれて一元化されていた統治エリートは政治エリート、経済エリートと知識エリートに分化し、政治エリートの代表的、『代理人』的性格が顕著になり、少なくとも彼らは自己の同盟軍――経済エリートと知識エリート――を代表することが必要となった。これこそが『三つの代表』の真諦なのである」。(何家棟、王思叡「社会階層の分析と政治的安定の研究」)
 だが康暁光の分析が「改良主義党」などでは押さえきれない今日の中国共産党の奇怪な性格を見ていくに際して一つの重要な示唆を与えているのは確かである。
 この文章を「『六四』〔天安門事件〕以降の一三年間の中で最も重要なもの」と高く評価する胡平は、しかしそれは「中国共産党の専制擁護の絶唱」なのだと言う。と言うのも、ここまで冷徹に今日の中国共産党政権を分析した康暁光のこの文章の結論はつぎのようなものだったからである。
 「自己の根本的利益を維持し守るためには、中国共産党は必ずエリートの利益を適当な限度に制限する必要がある。それはエリート間の連盟の破裂を引き起こし瓦解させる可能性がきわめて高いことから、現在の政治的安定を維持する重要な基礎なのである。すなわち、中国共産党の手中にあるのは『諸刃の刃』なのであり、安定性の問題を力で威嚇して解決しようとすることは往々にして安定性の基礎を破壊することになるからである」。
 「見方を変えれば、中国大陸の安定性は中国共産党の理性と民衆の忍耐力によって決まるのである。もし中国共産党が理性を備えており、問題を終始大衆が容認できる範囲内に制限することができるなら政治的安定の維持は可能である」。 ここでの「適当な限度に制限する」という言い方に注目しつつ胡平は康暁光論文が「専制擁護の絶唱」ある所以をこうまとめている。
 「ますます厳重となる社会的不満に直面して康暁光たちが政府に提出した建議のすべてはつぎの一言に帰結する。すなわち『われわれは節度をもって彼らを搾取しようではないか』」。(「中国共産党の専制擁護の絶唱」)
 われわれにとっても今日の中国経済の性格分析と中国共産党権力の性格規定は急務となっているのだが、ここでは目を転じて「三つの代表」論の大キャンペーンの背後で、それと微妙な関係をもって展開されている一つの興味ある「論争」について見ていこう。それは一九九〇年代に入って開始されたいわゆる「新左派」と「自由主義」の論争である。
 この「両世紀にまたがる大論戦」と言われる論争は今後の中国の動向を見ていく上で重要であるように思われる。康暁光もまたこう述べている。
 「九〇年代、新左派は理論上重大なことを成し遂げた。•••実際上、彼らは膨大な理論体系を構成しており、それは一つのイデオロギーへと発展し、さらには中国大陸の権威主義的政治に合法性を提供する論説となる大いなる可能性を持っている。この意義でみれば、九〇年代中国共産党の最大の収穫はイデオロギー再建の分野において初歩的な成功を獲得したことだと言うこともできる」。
 つまり「文革徹底否定」と「改革開放」路線の展開のなかで、中国共産党はイデオロギー的には事実上空白となっていたのだが、「新左派」理論の登場はそれを埋めていく可能性があるというわけである。
 「自由主義」とは大雑把に言えば文革終焉後に党内「改革派」に呼応した在野の自由派知識人の系譜にあるものとしてわれわれにとっても了解可能な思潮である。だが「新左派」とは何者なのか。
 文革崩壊以降、中国において「左派」という言葉は貶義であり、日本では「改革派」との対比で「保守派」と訳されたりしている。ところがその中国に「新左派」が生まれ、その主張を述べ立て、公然と「自由主義」を批判して論争になっているというのだ。
この「新左派」と「自由主義」の論争は多岐にわたっており、その全容をつかむにはかなりの準備が必要である。それに現在主として雑誌やインターネット上で展開されているこの論争が中国の人民諸層の動向とどのように繋がっているのか、さらに中国共産党当局が今のところそれを放任しているかに見えるのはいかなる政治的判断によるのか、等々事態はなかなかつかみ難い。
 一九八九年以降、真実を公に語ることは実際には不可能なのであって、誠実な思想は地に籠っており、表に出ているのは多かれ少なかれシニックな日和見的なものであり、この両派の主張をもってこの時期の思想を代表するものとするのは正しくないという見解もある。(任不寐「『日和見主義』の理性的境界」)
 それに中国での知識人世界と広大な大衆世界とは今なおわれわれの想像を越えて隔絶したものであるようであり、それに「インターネット論壇」を賑わしているこの論争も伝統的なメディアでは人目を惹いているわけでは決してないという証言もある。だが中国共産党指導部がこの論争を注視しているのは確かである。
 ここではそれらは今後の課題として、「自由主義」の代表的な論客である徐友漁、朱学勤の整理を一瞥して先に進もう。彼らによれば対立点は次の諸点をめぐっている。
 1.「市場経済と社会的不公平」、2.「グローバル化とWTOへの参加」、3.「中国の国情について」、4.「大躍進、人民公社、文革等々をどう取り扱うか」、5.「八〇年代の思想解放運動と五四新文化運動をどう取り扱うか」、6.「中国の現代化」。(徐友漁「知識界は一体何を争っているのか?」)
 見られるようにこれらの論点の背後にあるのは、文革終焉以降の「改革開放」の評価、一九八九年の天安門事件、東欧•ソ連社会主義の崩壊の総括の仕方、そしてグローバリゼーションと「九•一一」のもとでの中国の内外政策という大きな問題である。
朱学勤はそれらはつぎの三つにまとめられると言う。
 1.中国の「基本的国情の判断をめぐって」、2.「社会的弊害の判断をめぐって」、3.社会的弊害をいかに解決するかをめぐって」。(「新左派と自由主義の争い」)
 以上の諸点はひとり中国にとどまらず、日本のわれわれにとっても大きな関心事である。しかし今までのところこの論争は日本でそういうものとして取り上げられ検討されてきたわけではない。
 この論争に注目した日本での数少ない作業の一つに緒形康「現代中国の自由主義」(『中国21』Vol.9 風媒社、所収)がある。興味ある人は参照のこととして、ここでは徐友漁が上げたなかの一つについて見ておこう。それはわれわれにとっても同時代の出来事であった文革の問題である。
 なにしろ「新左派」は「われわれは永遠にいわゆる『文化大革命』を呪おう」(胡喬木)ということが国是の中国で「文革にも合理的要素があった」、「傷痕文学的総括から脱しなければならない」と主張しているというのだ。しかもその多くは文革を知らない若い世代だという。
 もっとも「新左派」と言ってもその内部は均質ではなく、外国在住派と国内派、毛派と必ずしもそうでない者、ナショナリックな傾向とそうでない者との間にニュアンス上かなりの見解の差があるのだが、「自由主義」批判では一致している。
一方、「自由主義」もまた「市場」万能派と必ずしもそうではなく「社会的公正」と政治改革に力点を置くもの等の差異があるのだが、共に「新左派」の主張には強い警戒心を抱いている。その多くは文革をくぐっており、その一人徐友漁は文革史上名高い四川省成都での大武闘を経験した「出身不好」の元造反派紅衛兵の指導的メンバーの一人である。
 この両派が文革をめぐって何を論争しているのか、これはきわめて興味あることである。


 1.「新左派」とは何者か――自由派知識人の分岐


 ここでは両派の論争全体に立ち入ることはできないが、以下の記述の背景理解のため両派の形成の概略を、とりわけ「新左派」とは何者なのかのおおよその輪郭をつかんでおくことにしよう。
「新左派」は一九九〇年代に新たに登場した「自由主義」に対抗して形成されている。両派の論争が公然化したのは一九九七年だというからごく最近のことである。
 「自由主義」とは広義には文革終焉後、政権内部の改革派と連携した自由派知識人、とりわけ九〇年代に大きな影響力を持った新啓蒙主義の系譜上にあると言えるにしても、その系譜には一つの重要な転折点があった。すなわち一九八九年天安門事件と一九九二年鄧小平「南巡講話」の介在である。
 天安門事件以後、運動を担った活動家層の中核部分は獄中に入るか「海外流亡」を余儀なくされたのだが、その後の中国思想界を覆ったのは無力感と「失語症」であったという。そしてこの時期それを覆いつくすかのように「改革開放」が全面展開へと向かい、知識人たちの間でも「下海」が流行となる。
 しかし次第に「失語症」からの回復が始まり、思想が再形成されていく。そこには二つのベクトルがあった。その一つは「急進主義」の批判であり、もう一つは中国にとっての資本主義の肯定的評価であった。
 「急進主義」批判の背後にあったのは言うまでもなく文革総括の記憶と天安門事件の教訓であった。これまでのような体制変革の道は誤りだったというのだ。こうして「新権威主義」、「新保守主義」が主張されることになる。
 一方、これまで社会主義中国のもとで一貫して批判の対象だった資本主義とそのイデオロギーの見直し、評価が進行する。こうしてこれまで体制批判で一体感を保持していた自由派知識人の間に分岐が起こり、その一部は体制支持へ移行する。これら思想の再編の中からいわゆる「自由主義」が形成されていく。
 この時期、彼らが読込んだのは、バーク『フランス革命論』、トックヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』、ハイエク『隷従への道』、バーリン『自由論』、アレント『革命について』、ポパー『開かれた社会とその敵』、等々であった。一つのエポックを画する運動の挫折の後の光景はいずこも同じなわけである。七〇年代、われわれもまたこれらの著作を手にしたではないか。さらに中国近代史のなかから「急進主義」、「民衆主義」(「民粋主義」)とは異なる自由主義の系譜が発掘され、顧准、陳寅恪等の再評価がなされている。
 「新左派」はこの「自由主義」の主張――「急進主義」、「民衆主義」への拒絶と中国にとっての資本主義の積極的意義の評価、市場化の先に政治的自由と民主を展望する――への批判者として登場している。本格的な論争の始まりは一九九八年に発表された韓毓海の「『自由主義』というジェスチャーの背後で」という文章であった。
 ここではこの「新左派」について二点を留意しておこう。その一つは「新左派」もまた広義の自由派知識人の流れにあり、彼らによる「自由主義」批判が結果として中国共産党政権による自由派への批判、圧迫と交錯することがあるとしても、それを一緒くたにはできず、この論争は自由派の分岐としての性格を持っていることである。
 もう一つは「新左派」の内部には明らかに異なる二つの傾向があり、人的に見れば一方の汪暉、崔之元らのどちらかと言えば学者派と、他方での李憲源、粛喜東ら「民衆派」との間の見解、出身階層、社会的基礎のちがいである。「自由主義」の王思叡は李憲源らを「新左派」、そして党内の「老左派」とも区別して「中左派、毛主義」と名づけている。(「今日の中国の左派のスペクトル」)
 後でふれる演劇「チェ•ゲバラ」の製作者張広天、黄紀蘇らは典型的な「中左派、毛主義」であり、彼らは「新左派」の学者部分が「革命」について語ることのないのを皮肉っている。(張広天「『新左派』と革命の問題から私の文芸観を語る」)


 2.両派の文革論争を見ていく視角


 ところで文革をめぐる両派の論争についてある評価を下すためには文革についての今日的な総括的評価を必要とするわけだがこれがなかなか難しい。ここではつぎの諸点を押さえておくに留めよう。もっとも視角が定まりさえすれば文革評価の基点は半ば築かれたことにはなる。
 まず第一点は文革終焉以降今日に至る中国共産党の「文革徹底否定」論は退けられなければならないということである。 多くの悲惨さを伴った文革を今日単純に肯定するものはいない。のちに見るように「新左派」にしてもそれは同じである。だが「文革徹底否定」論が文革の真剣な批判的総括であったかといえばそうではなく、それは勝者たちの政治的見解であった。
 「『四人組』の反革命クーデターを粉砕したもの」とされた一九七六年一〇月六日の「四人組」打倒は形態的に見れば実は反文革派の「クーデター」であった。葉剣英ら軍人を中心に秘密裏に準備された「特殊な戦闘計画」に対して政治闘争による権力掌握を意図していた江青グループはひとたまりも無かったのである。
 その後、文革の悲惨な実態が衝撃的に明らかにされ、すべては「四人組」と追随者たちの「内乱」の企てだったとされて以降、世界の文革評価は逆転し、日本の「文革礼賛者」たちも沈黙してその総括を放棄した。
 だが、その「文革徹底否定」論は、①文革前の十七年は正しかったのであり、「走資派」など存在しなかった、②造反派とは「三種類の者たち」すなわち「林彪、江青グループに追随して造反し出世した者、派閥意識の甚だしい者、殴打•破壊•略奪分子」のことである、③社会主義とは生産力の発達である、という把握に基づくものであり、そこからは文革に立ち上がった億万の造反派大衆の存在と彼らが感受していた中国社会主義の抑圧性の問題はスッポリ抜け落ちていた。
 文革は毛沢東なりにこの「官僚主義」の問題に取り組もうとしたものであり、その打破を「公然かつ全面的に広大な大衆を下から上へと立ち上がらせ、われわれの暗黒面を暴き出す形式、方式」をもっておこなおうとしたものであった。
 だが劉少奇らの異論を「党内ブルジョアジー」と規定したことに示されるスターリン主義的な他者批判の仕方の全面化、それら「走資派」への「革命的大批判」の激烈な展開にもかかわらずそれは「免官革命」、「人を捉まえる革命」――のちに造反派の鋭敏な部分が揶揄してそう名づけ批判したのだが――でしかなく、根本的な社会的•政治的変革への道は閉ざされていたこと、その理論的根拠となった毛沢東、張春橋の「ブルジョア的権利の制限」論の理論的•実践的誤り、等々によって、文革は仮にそれが勝利したとしてもその「共産主義」の中身は「コミューン」ならぬマルクスの言う「粗野な共産主義」を越え出るものにはなりえなかったろう。
 劉少奇、鄧小平の路線に文革前の中国社会主義の抑圧性が含まれていたのは事実だとしても、それでは毛沢東の文革と鄧小平の「改革開放」のどちらが中国の民衆にとって望むべきものだったかと問題を立てたとき、「改革開放」をただブルジョア階級の復活への道だと割り切れないところに文革総括の難しさがある。それはちょうどソ連•東欧の社会主義の崩壊をどう見るのか通ずる問題でもある。
 かって毛沢東の文革を越えた「中国コミューン」を唱えた造反派の指導者たちも今日それを唱えることはしていない。
しかしこれらの問題に納得いく総括を深めるためにこそ「文革徹底否定」論は突き崩されなければならないのである。
 第二点は文革が確かにはらんだ「誤り」、否定的な問題性をどう押さえるべきなのかという問題である。それは毛沢東の文革理論の誤りとそれを利用した「四人組」の「反革命的内乱」の結果だったというのが「文革徹底否定」論の主張である。
 この主張を退けたとしても、そこには「文革徹底否定」論が言う意味とは異なる意味での「毛沢東の文革理論の誤り」があり、中央文革と造反派、林彪勢力、「四人組」によるその実践があった。そしてそれは反文革派の凄まじい抵抗に遭遇する中で多くの悲惨な出来事が起こった。そして文革を文革たらしめた造反派の運動が毛沢東の指導の枠をはみ出たとき「今は紅衛兵少将たちが誤りを犯すときである」(毛沢東の不可思議な言葉)として解体され、以後文革は枯渇へと向かっている。
 しかしそれらの諸事態を一つ一つ吟味していくとき後知恵的に見えてくる毛沢東理論の個々の誤りという次元を越えて浮かび上がってくる一つの事柄がある。それは文革が課題としたことの困難さ、さらには「革命」そのものの困難さが突きつける問題である。どういうことか。
 現実がある課題をのっぴきならぬものとして突きつけ、人は手持ちの認識と実践力をもってそれに取り組み解決しようとする。その「解決」の仕方そのものが一歩間違えれば単なる「誤り」を越えて「悪」を構成してしまうことが起こる。 毛沢東と文革派は彼らがのっぴきならぬものと考えた課題と取り組み解決しようとした。
 「誤り」はこの困難な課題との格闘の中から生じている。これが基本である。つまり「誤った路線」だったから誤った結果が出たのではなく、ある現実が突きつける課題との格闘がまずあり、もし「誤り」が生じるとすればそれはその格闘の仕方、解決の仕方の中からなのだととらえるべきなのである。
 理論的に未熟な者が「誤り」を犯した、当初からの悪人が「悪」をなしたというようなことは政治の世界では問題になりえないのである。そもそも「誤った路線」そのものが何かとの格闘の敗北形態、堕落形態なのである。
このように言うことは文革の救出のためではない。そうではなく問題をこう立てることによってはじめて文革の「革命的批判」が可能となるのである。
 第三にこうして文革はそれが単なる「野心家たちの反革命的内乱」などでなかったからこそ問題は深刻なものとなった。それは億万の大衆を立ち上がらせる力を持ったのだが、直面した課題との格闘、その解決の仕方そのものが「誤り」を生み出し、「悪」を構成し、そこでは政治と政治言語の邪悪さはその極限的な姿を現している。
しかし注目すべきはそれら文革の邪悪さ、抑圧性の只中から、それを対象化しつつ毛沢東の理論、政治、言語から自立していく動きが始まっていることである。「新思潮」、「極左派」の形成である。湖南省無聯の「中国はどこへ行く?」や「李一哲大字報」はその流れの中から生み出されている。
 だがそれらの動きは一つの運動としての文革の敗北を意味していた。こうして文革派から人心が離反した分だけ、それは反文革派に集まり文革は打倒されたのである。
 今われわれがあらためて文革について考えるということは他でもなく、東欧•ソ連の崩壊を「スターリン主義の崩壊であり、真のマルクス主義は無傷である」とする欺瞞に留まることなく、かつ勝ち誇る資本主義世界からの「マルクス主義は崩壊した」という大合唱に抗して歴史と現実を再点検し、針路を再設定するという困難な課題の一環としてである。 そしてこの問題の総括はいまなおなされていないのであり、それはソ連•東欧社会主義のみならず日本のわれわれ自身の運動の衰退•凋落の総括に直接に関わる問題でもある。
 それではこの文革評価をめぐって「新左派」、「自由主義」は何を争っているのか。


 3.「新左派」の文革再評価


 文革の意義を見直すべきだという大胆な発言を最初におこなったのは崔之元だといわれている。一九六三年生まれで中国社会科学院に入った崔之元はその後アメリカに留学し、シカゴ大学、マサチューセッツ工科大学で教鞭をとっている。 その論文「鞍鋼憲法とポスト•フォード主義」で鞍鋼憲法こそポスト•フォード主義の先駆だったと述べて論議を呼んだ崔之元はさらに文革についてこう述べたのである。
 「『文革』大衆運動の中にもある合理的要素を含んでいたことを見るべきである」。
 「それは大衆の政治生活への参加である」。\n 「ニーチェは、記憶は一民族を殺すことができると述べたが」、文革の傷痕を反芻するだけ  では駄目である。
 「盥の水と一緒に赤ん坊を流してしまってはならない」。  「毛沢東が述べた七、八年たったらもう一度文革をやるという言葉は定期的な全国的直接普通選挙ととらえるべきであり、これこそが人民民主独裁あるいはプロレタリア独裁の本質なのである」。
 文革から三〇年余をへた今日、こういう主張が登場したのである。当然これらは中国国内で強い反発を受けると共に共鳴も生み出している。まず「新左派」の中で文革について積極的に発言している崔之元、李憲源(常仁)、粛喜東らの主張について見ておこう。
 その内部は必ずしも一様ではない「新左派」だが、ことを文革に絞ったときそこにはさらに明確な見方の差がある。ここで取り上げる論者で言えば、崔之元のそれが西欧の現代理論によってとらえ返された文革再評価だとすれば、青年期に文革後期の「批林批孔」運動などを体験している李憲源は心情的にも毛派であり、民衆の立場の名において「経済文革」の必要性を唱える実践派である。彼は「新左派」と呼ばれることを必ずしも歓迎しない崔之元らを皮肉ってこう述べている。
 「私は西欧理論の大作を学ぶことにものぐさであるという欠点を持っており、それにかって地球の裏表の地で肉体労働者として働いてきたので、西欧の深遠な左翼理論を売り出すことに長けているという『新左派』としてもふさわしくない者である」。
 もっとも、李憲源のこの批判を「『新左派』の分岐を示すもの」と見る「自由主義」の論評に対して「左派、民族主義陣営内部の意見の分岐を無限に誇張している」と反論しているところを見ると、これらはイデオロギー的にいまだ生成過程にある「新左派」の内部論議なのかも知れない。


 1.「文革徹底否定」の批判


 彼らはその主張に当たって共にこれまでの当局による「文革徹底否定」論の弊害について述べている。
崔之元:「王紹光が『文革研究の視野を広く開拓しよう』でまさしく指摘したように、当局が今日おこなっている文革研究への制限は『安定団結』を追及するという妥当な願望によるにしても、実際にはわが民族が文革の深刻な教訓を全面的に汲み取る上で不利なものとなっている。文革の複雑な社会的原因についての公開的な自由な学問的検討をおこなうことによってはじめてわが国が『安定団結』の民主的な法制への道を歩む上で真に有利となるのである」。(「毛沢東の文革理論の得失と『モダニティー』の再建」)
 李憲源:「あらゆる『一〇年の動乱』、『一〇年の悪夢』の類の言い方は感情的な共感を広汎に引き起こすことが容易だとしても、文革中の異なる人々の『受難』の異なる性格、異なる社会的根源を分析することに役に立たない。文革に対する社会科学的な研究は『傷痕文学』的な視野を越え出ることがどうしても必要なのである」。(「造反派と五七年の右派との共通点から見た文革」)
 そして李憲源は「文革徹底否定」論がもたらした諸結果をつぎのように列挙している。
1.「人民大衆の民主的監督の権利と参政意識を弱め、官僚の特権と腐敗の風潮を助長した」。2.「『大民主』の有益な試みとその改善を放棄し、社会矛盾を激化させ、国際的な敵対勢力が機に乗ずるのを許した」。3.「『法制を軌道に乗せる』を一面的に強調することにより、司法の腐敗を中国の法治の建設にとって巨大な障害となさしめた」。4.「労働人民の政治的、経済的地位を弱め、貧富の両極分化を改革と社会進歩の代償とした」。
 李憲源はそれらの内容を詳細に述べているのだが割愛しよう。
 粛喜東:「遺憾なことに今日流行の文革歴史記録の文献の中で、その大多数は『劫後余世(大災難を幸せにも生き延びた)者の回想録文学』という類型のものであり、この類の文献は文学化、エピソード化ということの他にはそれらの大半は事後の回想者、夢から醒めた者、懺悔者としての視角、言語、価値観から書かれたものであり、文革参加者が当時関心を持ったテーマを反映したもの、参加者の当時の思想性格と言語のスタイルを反映したものは今日ではきわめて見つけがたく、関連文献の系統的整理が欠けていた」。(「文化大革命文献館 前書き」) 
 「文化大革命文献館」というのは粛喜東が主宰する貴重な文革資料を集めたサイトであり、彼は香港の社会学者だということだが細かい経歴は分らない。
 それにしてもこれらは何とも大胆な発言である。文革総括の見直しは「安定団結」にとって必要なことなのだと強調しているとしても、従来の「文革徹底否定」論的反省は公然と批判されている。現在の中国でこの程度のことを言うことは許されているのか、それとも「新左派」がその内部に多分に中国ナショナリズムに繋がる要素を含んでいることもあって当局が容認しているのか。
 もっともここが微妙なところなのだが、「新左派」の文革再評価は当局の「文革徹底否定」を直接批判の対象とすることなく、専ら「自由主義」の文革総括への批判としてなされている。ここにはただ戦術というにとどまらない「新左派」の思想性格が現れている感もある。
 ところで当局の文革総括に異を唱える声が「新左派」以前になかったわけではない。かの湖南省無聯の楊曦光、「李一哲大字報」の王希哲、広州「旗」派の劉国凱、紅衛兵組織発足の地、精華大学付属中学出身で作家の鄭義ら、かっての造反派紅衛兵の指導者たちの一部が自らの経験に照らして官方文革史の記述を批判してきている。
 そこでの文革経過への歪曲、とりわけ文革のすべての「悪」を造反派紅衛兵の仕業とし、その活動を全否定した当局の総括の仕方は容認できることではなく、彼らは文革には「毛沢東の文革」と「人民の文革」とがあったのであり、その関係は「相互利用」だったという「二つの文革」論、そしてこの「人民の文革」は一九六六年六月から六八年秋(あるいは六九年春)の間だったという「文革二年(あるいは三年)」説をもって対抗し、自分らの活動こそ今日の「民主化運動の先駆だった」としてその意義を再確認してきている。
 「新左派」による文革再評価も彼らの作業に助けられている。だが「新左派」の文革再評価には元造反派イデオローグたちのそれとは大きな違いがあった。それは彼らが毛沢東と中央文革の文革そのものに「合理的な要素があった」としていることである。そしてそれと造反派との関係は「政治的同盟」だったと言う。
 なお、この「相互利用」だったのか、あるいは「政治的同盟」だったのかは文革を見ていく上で重要な論点だと思われるが「新左派」はそれをめぐって元造反派イデオローグたちと意見を異にしている。
 さらに「新左派」の主張には造反派たちのそれとは明らかに異なるトーンがあった。それはインターナショナルな立場に立っての革命の復権というのではなく中国ナショナリズムに繋がる文脈のなかでの文革再評価であるということである。


 2.「文革の積極的要素」


 「新左派」たちによる文革再評価の特徴は、それが単なる「文革ノスタルジー」(「文革情結」)によるのではなく今日の世界と中国の新たな情勢に突き動かされていることにあった。
 その一つはその主張が欧米諸国での新たな資本主義批判の理論的摂取に媒介されていることである。フォード•システムの克服を唱えるレギュラシオン理論から、アミン、サイード、ウォーラーステイン、「ポスト•モダン」理論などを学んだ彼らの目に毛沢東理論の幾つかはすでにそれを先取りしていたものとして映り、こうして文革の意義が再発見されたわけである。
 もう一つは「改革開放」がもたらした状況への危機感である。「改革開放」は一方で大きな社会的境遇の差を生み出しており、流れから取り残された層のなかに一方で「毛沢東ノスタルジー」(「毛沢東情結」)が生まれ、他方「法輪功」の社会的基盤となっている現実があった。
 その深刻さは批判派の何清漣とは言わず今日の体制下で一定の位置を占めている一部の「新左派」たちによっても「目下、中国は再び社会的不安定の時期に入りつつある」との警告が発せられているほどのものとなっている。(王紹光、胡鞍鋼「最も厳重な警告:経済的繁栄の背後での社会的不安定」)
 「新左派」の張広天、黄紀蘇らによる演劇「チェ•ゲバラ」が二〇〇〇年四月の北京公演を皮切りに、河南、上海、成都、香港、広州等の中国各地を巡回して多くの観衆を動員して強い感銘を呼び起こし、著名人による劇評が幾つも書かれたというのも時代の雰囲気を示していた。
 そして「改革開放」によって中国が乗り出した世界はアメリカが圧倒的な支配力を握っており、そこの秩序に飲み込まれるのではないかという危機感もあった。旧ユーゴ中国大使館「誤爆」事件は中国ナショナリズムを一気に高めている。


 (1)「毛沢東理論はポスト•モダンの先駆だった」


 「新左派」にとって毛沢東理論は「反資本主義的モダニティーのモダニティー理論」(汪暉)として押さえられている。彼らによってとらえ返された文革理論はつぎのようなものであった。
 崔之元:「『文化大革命』は悲劇をもって終わった。だがこのことは毛沢東の『文革』理論が正統マルクス•レーニン主義の重大な乗り越えを意味していなかったことを意味せず、さらには『大民主』――広大な労働人民の経済民主と政治民主――は望むべくして及び得ないものであったことを意味しない」。
 「われわれは西欧主流のモダニティーの中での正統マルクス•レーニン主義の位置について深刻な認識をしっかり持たなければならない。毛沢東と正統マルクス•レーニン主義との関係はすなわち中国での実践と西欧主流のモダニティーとの関係なのである。この関係の深刻な認識があってはじめてわれわれは新たな『言語』を創出できるのであり、中国の現在と未来を描き把握できるのである」。
 李憲源:「指摘しなければならないのは、文革後期、毛沢東は大局の安定、官僚階層との妥協の必要性によって造反派への大規模な打撃•迫害を黙認さらには放任したとはいえ、文革運動は結局のところスターリン主義的な社会主義の方式の伝統と決まりを創造的に突破したということである」。
 そして崔之元は毛沢東は「正統マルクス•レーニン主義」も超えることができなかった「西欧主流のモダニティー」が抱えていた「深刻な内在的矛盾」を突破したのだと言う。
 「解放」と「規律」がそれである。
 「毛沢東の新たな思想の核心は『人民大衆が歴史を創造する』ということであった」。
 「毛沢東は『人民大衆が歴史を創造する』という理論をもってヨーロッパの主流であるモダニティーがはらむ矛盾の突破を試みた。彼が文革の中で唱導した『大民主』こそ『人民大衆が歴史を創造する』ということの大実践であった。この実践は悲劇をもって終わりを告げた(その部分的な原因は毛沢東の文革理論それ自身が正統マルクス•レーニン主義の教条性を超越するのに不徹底だったことにあった)とはいえ、その経験の教訓はわれわれが二一世紀の中国の政治、経済体制を建立するための豊富な参考を提起している」。
 こでは二つの点にふれておこう。  第一にマルクス主義がこの「内在的矛盾」を超えられなかったという点について。
 崔之元の場合「正統マルクス•レーニン主義」、「教条化したマルクス主義」という表現が区別されないまま用いられているのだが、本来のマルクス主義においては彼の言う「内在的矛盾」は自覚されており、従ってそれを超える端緒はつかまれていた。
 「この共産主義は人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、自由と必然との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である」。(『経済学•哲学草稿』)
 マルクスはその鍵を「プロレタリアートの社会的結合」としてとらえていた。(この問題については別の角度から斉藤論文(「解放派におけるマルクス主義の深化再生の道は何か」、本誌創刊号に抄録)が詳述している。関心ある人はそちらを参照していただこう)
 もっともマルクス主義がこの「矛盾」を解決したと言ってもそれはあくまで端緒としてであり、その実現は困難な実践的•歴史的課題であった。
 「プロレタリアートの社会的結合」は資本主義そのものが生み出すのだが、それはあくまで萌芽であり、その実現をめぐってすべての困難さが現れる。なぜ困難なのか。それは「内在的矛盾」の解決、「プロレタリアートの社会的結合」の実現は予定調和的なものではなく実践を通して形成される課題であり、その過程はこれで終わりということではない永続的なものだからである。
 つまりそこには「相対的な正しさ」や「妥当な真理性」はあっても「これが客観的真理」と誰かが言明しるものはないのであり、こうして課題はその実現のための過程、条件、過渡的課題の解明という領域に転移する。「情勢分析」や「戦略•戦術」が課題となる。政治と政治言語がその真価を問われるのはこの領域においてである。
 そして政治的異論、政治的他者が立ち現れるのはこの領域においてである。「客観的真理」が不在ないし未実現のもとで、複数の選択肢がいわば「相対的な同等性」を持って登場するのは避けられない。こうして争われるべきは相互の消し合い、政治言語の死滅を意味する「絶対的、客観的」真理ではなく、「相対的、妥当な」正しさ、真理性なのであり、だからこそ対立と共同、論争は政治と政治言語の本来的な属性なのである。
 第二に崔之元の主張に反して毛沢東理論はそれを超えていないという点について。
なぜなら毛沢東理論に欠けていたのはまさにこの「プロレタリアートの社会的結合」論だったからである。
「大民主」を意味するとされる「人民大衆が歴史を創造する」という言葉が実際に人民大衆の自立を含んでいたのなら崔之元が「問題は解決された」と言うことはできよう。そしてこの人民大衆の自立には複数の選択肢を前にして自らの見解を持ちうること、言い換えれば毛沢東をはじめとする党中央の意見に対しても異論を持ちうることを意味する。
 だが「大民主」はそういう意味での自立を容認するものではなかった。そこでは指導的な意見以外は容認されないというより、人々はそれに自己解体的に一体化することを求められたのである。
 さらに中国共産党のマルクス主義、毛沢東理論が伝統的に持つ政治的他者観がある。これについては後に見よう。
 以上の問題に無自覚のまま崔之元はつぎのように述べている。
 「今日の『ポスト•フォード主義』の世界的潮流の中で毛沢東が高く評価した『鞍鋼憲法』は最も早くかつ鮮明にフォード式分業体制の骨化に挑戦したものとして、とりわけ人々の注目を引いたのである」。
 ここで崔之元が「経済民主」へ引き継ぐべきものとして注目しているのは「両参一改三結合」であった。
「一九五〇年代末の大躍進期に提唱された企業の大衆的管理と技術革新活動の方式。『両参』とは労働者が管理活動、たとえば生産労働のほか、コスト、技術措置などの計画編成、製品の品質分析、設備の検査維持、新製品の研究開発、技術規定の編成などに参加する一方、指導幹部が毎年一定の時間、労働者と一緒に現場労働に参加し、現場労働者の要求と生産上の問題を適時に解決することを指す。『一改』とは生産技術の発展に適応しない規則制度を『両参』に適合したものに改革することを指す。『三結合』とは指導幹部、技術者、労働者の三者の協力による技術革新運動を指す。この方式はのちに鞍鋼憲法に継承され、文化大革命期に強調された」。(『岩波現代中国事典』、1999)
 崔之元は「それはフォード式の骨化した、垂直的命令を核心とする企業内分業理論への挑戦であった。『両参一改三結合』は今日流行の用語でいえばチームワークのことである」と言う。
 「遺憾なことに、『鞍鋼憲法』の発祥の地で、今日人々がそれを再び提起することはほとんどない。その原因は複雑だが、一つはっきりしている原因は、『大躍進』と『文化大革命』の中で出現した混乱が『鞍鋼憲法』の執行においてその元々の意図との違いを極端に大きなものにしてしまったことであった。現在の問題は、われわれが盥の水と一緒に赤子を流してしまうべきか否かということである。『改革開放』の今日にあって、世界的な『ポスト•フォード主義』の潮流のなかで、『鞍鋼憲法』はわが民族の工業振興にとって精神的、組織的資源の一つとすることができるのかできないのか?」
 「新左派」たちによる過去の経験のこういう再評価の仕方には心惹かれるものがないわけではない。文革そのものがはらんだ深刻な問題性と、とりわけ「文革徹底否定」論によって今日では塵あくたとされている実践のなかからその初源の意図と経験を救出し、それを今日の実践に繋げるということは意義あることであり、人を元気づけるものだからである。
だが「新左派」たちの文革総括の仕方、毛沢東の文革理論の評価の仕方には、その多くが文革をわが身で経験していないことをさておいても、やはり理論的未熟さ、皮相さがあると言わなければならない。
 ここでの問題でいえばそれは毛沢東の「鞍鋼憲法」論そのものがはらんでいた問題に無自覚なことである。それは文革の混乱によってその「元々の意図」が捻じ曲げられたというものではなかった。その「元々の意図」そのものに「新左派」がイメージする「経済民主」は含まれていなかったのである。
 そしてこれこそが文革をその根底において失敗づけた重要な一因だったのであり、毛沢東の本来の文革目的であった「闘•批•改」を通しての「新生事物」の実現、「真紅の新世界の創出」は文革後期、江青グループの主導のもとで戯画的なものとなり、鄧小平による絨毯爆撃的な「整頓」によって掘り崩される脆さを持っていた。
そのことに気づいた毛沢東がおこなったのは以前からの持論であった「ブルジョア的権利の制限」の前面化であり、張春橋、姚文元にその文章化を命じている。
 だがそれは「ブルジョア的権利」を死滅させていく社会的諸関係の形成へ向けての方策の具体的提起ではなく、現今の生産関係のなかから「走資派」を放逐すれば「ブルジョア的権利の制限」が可能となるといった理論的にも誤った把握に基づくものであり、長年の「大批判」に倦んだ労働者大衆を奮起させることはすでにできなかった。
 だがこの問題は文革の限界をこのように見るわれわれ自身が実践的にはもとより理論的にも未完の課題なのであり、人のことを言えた義理ではない。「アソシエーション革命」論もいまだその遙か手前にとどまっているというのが実情なのだから。


 (2)「大民主」の意義


 一九六六年八月、「十六条」(「中国共産党のプロレタリア文化大革命に関する決定」)が呼びかけた「大民主」(「大鳴•大放•大弁論•大字報」)は当時の造反派の運動を一気に解き放ったものであった。\n 「新左派」たちの文革再評価はニュアンスの差を含んでいるが、彼らが一様に強調しているのは「大民主」の意義である。
崔之元:「毛沢東の『大民主』は毛沢東の未完の事業であり、彼の政治的遺産の中でわれわれが最も重視するに値する部分である。毛沢東の文革理論を弁証法的に止揚することは二一世紀中国の高度な民主的政治体制を建設するための必要条件なのである」。
  李憲源:「社会主義的民主の進め方という角度から見れば、そのなかで最も重要な一つは文革が大衆に『四大』の形式をもって『プロレタリア階級の司令部』を除いて上は中央副主席から下は生産現場の支部書記に至るすべての党組織の指導部を暴露し批判することを許したことにあった。•••もし広大な民衆の中に辛亥革命も一九四九年の建国も完成できなかったこのような思想革命が完成していなかったなら、のちの思想解放も改革開放も考えられなかったろう。だからこの種の文革の積極的要素を改革開放と対立するものと見なすことはまったく道理がないことなのである」。
 粛喜東:「文革の意義をさらに全面的に総括する上で、われわれは『人民内部の矛盾を正確に処理する』という方式を元に文革を人民内部の矛盾を処理する方式を探求する大胆な試みと理解することである」。 「『十六条』の中の第七条は、革命的大衆を『反革命』と見なす者を警戒せよと述べているが、これは時代を画する意義を持つ社会主義の『権利法案』に相当するものである。文革のこういう意義での試みは痛ましくも失敗した。だがつぎのことは否認されるべきではない。すなわち文革運動は一時期に亘って、膨大な数の参加者がパリ•コミューンと言う理想の旗印を掲げて社会主義が本来含んでいた中心的内容――人民大衆が国家の上層建築を管理すると言う権利、今日の言葉で言えば政治生活における民主――をまさに実践したのである」。
 このようにこれら「文革の積極的要素」の見直しは単に文革の再評価ということにとどまらず、今日の「改革開放」の推進に利するものであり、さらにはヨーロッパ民主主義を超えた「高度な民主主義」建設の中に生かされるべきものと位置づけられている。
そしてこの主張の背後にはソ連•東欧の崩壊に対する次のような総括があった。
韓毓海:「社会主義のスターリン主義版は生産手段の所有制の真の改造をおこなったわけではなく、市場の廃止後の空白は国家官僚によって補填されたのであり、国家官僚が実際に演じたのは資本家の役割であった。人民にはただ名義上の政治と経済への参加の権利があったのであり、実際にはこの権力の操縦は少数の官僚の手に握られていた。
 この合法性の危機の解決には二種類の方案があった。その一種は民主的参加の方式と道筋を拡大することによって政治領域をますます公共的なものとすることである。もう一つは実際上はコントロールされた上から下への市場化と私有化であり、少数の者に生産手段を掌握させ、匿名のものを公開のもの、合法的なものとすることであった」。(「『自由主義』のジェスチャーの背後で」)
 そして「自由主義」への批判は彼らが後者の道を歩もうとしているということにあるのだが、その正否はさておき「新左派」のこれらの「大民主」の評価にはいかにも甘さがあった。  中国共産党言語(毛沢東言語)には人を戦慄させる威嚇の言葉と共に魅惑的な解放的言語が数多くある。「思想改造」(「翻身」)、「生き生きした政治的局面」、「人民内部の矛盾」等々である。文革初期の「群衆自己解放自己」、「群衆自己教育自己」などはその最たるものだろう。
 だがそれらが政治的に開かれた空間、自由な空間とは、まったく異質なものへと展開する契機を含んでいたことを「新左派」は理解していない。
 たとえば「思想改造」は人を旧来の諸関係、価値観からの解放であると共に「思想改造」の組織主体への思想的、政治的従属を意味した。また「人民内部の矛盾の処理」はそこで相対立する矛盾相互の相対的同等性の原理的承認を意味せず、常に「正しいもの」、「進んだもの」への「間違ったもの」、「遅れたもの」の包摂、吸収を意味した。
 「生き生きした政治的局面」も同じである。この言葉は造反派紅衛兵たちに開かれた政治空間のことと理解されて彼らを魅了した。だがそれは複数の選択肢のもとでの異なる意見間の対立と共同の政治空間を意味せず、あくまで「正しい思想」に統一され、一体化されることを前提とした上での、「積極分子」たちの活発な活動世界なのである。
 「新左派」たちは総じて毛沢東の「解放性」がはらむこの側面には気づいているのかいないのか無批判的なままである。


 3.文革をどう総括してはならないか


 だが「新左派」たちも文革がはらんだ深刻な問題に無自覚なわけではなかった。だが文革はどう総括されてはならないかという点に彼らの関心はおかれている。
 汪暉:「現代の中国の革命についての反思における基本的な傾向は革命の〔良くない〕結果(新たな不平等と社会的専制)への批判が革命の歴史的条件の分析に取って替わってしまっていることである。ここで根本的なことは、革命の歴史の中での悲劇をどう弁護するかということでは決してなく、この悲劇をどう理解するか、この悲劇と植民地主義、資本主義の市場拡張と中国社会の歴史的条件との関連をどう理解するかということである。•••だから真の問題は平等という価値とそのための社会的実践を簡単に否定することではなく、なぜ平等を目標とした社会運動自身がその内部に新たな等級性を生み出したのか、その歴史的メカニズムは何なのかということである」。(「一九八九社会運動と『新自由主義』の歴史的根源」)
 海外派の崔之元と共に「新左派」の理論的イデオローグである大陸在住の汪暉は崔之元や李憲源のようには文革の意義について語ることは少ないのだが、以上のように文革の問題性を「悲劇」と見ることのなかにその文革観は示されている。 そして彼らは「文革徹底否定」論を突き崩し、文革の真の姿を復元した後はじめて文革がはらんだ問題の総括も有益なものとなると言う。
 李憲源:「新たに生まれたいかなる民主制度もある種の欠陥を避けられないように『四大』もまたその実際の運用の中で必然的に幾つかの問題を生み出した。しかし非常に成熟した西欧の普通選挙制度もまたヒトラーに権力を握る条件を与えたことを考えるとき、『四大』が野心家や陰謀家に操縦されて利用されたことをもってこの制度を廃棄する理由とするのは妥当ではない。この豊かな中国社会主義の特色ある民主制度を改善し完全なものとしていく立場から出発するのではなく、『盥から赤子を流す』軽率なやり方は権力を私有化し、権力で私腹を肥やすことがますます頻繁となり止め難くなるにつれて、そのマイナスの影響はますます はっきりし不断に暴露され明らかになるだろう」。
粛喜東:「このような意義から文革を評価するとき、自ずから文革の是非功罪、とりわけその誤謬を然るべく分析することが可能となる。たとえば階級闘争理論の混入によって作り出された誤り〔原文「失誤」〕、文革初期での陰謀論の横行が作り出した悪い結果、大衆が大民主を実践する上での失敗、等々である。当然これら一切の分析は、転倒され、ごちゃごちゃにされ、隠蔽された歴史を明らかにした後ではじめて議事日程に上がるものである」。(「一九六六年の五〇日:記憶と忘却された政治」)
 これらの総括の仕方は首肯できるものである。当初の「良き意図」がいかなる脈絡のなかで「悪」を生み出したかということの解明こそが意味を持つからである。それでは「新左派」たちは何を解明しえたか。


 (1)毛沢東と文革の二面性


 「新左派」たちも「文革の失敗」について語っている。
李憲源:「毛沢東は文化大革命の実践の過程で、急進的かつ強烈な平民主義的色彩を持った『毛沢東主義』と権力の集中と官僚的秩序を強調する『スターリン主義』との間で常に態度を決めかね、揺れ動いていた。私が思うには、この政治的決断と価値判断における動揺、ジレンマが文革を失敗に導いた重要な原因の一つとなったのみならず、中国の資本主義勢力に再び巻き返しを許したことで毛沢東が歴史的責任を負うべきことだったかも知れないのである」。(「協同を選ぶのか、対抗に向かうのか」)
 粛喜東:「言語表現においてまた実践上でも、伝統的な『階級闘争』と大衆の大民主とが衝突する矛盾が存在した。この期間、『革命は客を招いてごちそうすることではない、•••』という言葉と『武闘はただ皮膚に触れることができるだけだが、文闘によってはじめてたましいに触れることができる』という言葉が両方ともしばしば引用された。前者は伝統的な意味での階級闘争を指していた。後者は特殊な意味での階級闘争、すなわち思想闘争を指していた。そして思想闘争は本来なら人民内部の矛盾の解決形態、すなわち民主的弁論を用いるべきものであった。しかし文革の全過程を通じて両種類の言語、両種類の区別はいまだ明確にされてはいず、それらの間の矛盾、衝突もまた解決に至っていなかったことが、大民主の実践の失敗の伏線となったのである」。(「文革の中の指導者と大衆:言語、衝突と集団行動」)
 文革はその発端から、「綱領」次元においても「二面性」を抱え込んでいた。すなわち「走資派」体制の「全面打倒」か「部分改善」かの問題である。「上海一月革命」の当初は「階級と階級の闘い」と述べていた毛沢東は「上海コミューン」への動きに直面して張春橋に「部分改善」だと明言し、以後一部の造反派の「すべてを打倒する」は誤りだとされていく。
 「新左派」はこの「二面性」を「平民主義的な毛沢東主義」と「官僚主義的なスターリン主義」、「大民主言語」と「階級闘争言語」との関係と理解している。だが実際にはこの「二面性」は先に「大民主」の個所でふれたように「平民主義的な毛沢東主義」、「大民主言語」それ自体がはらんでいるものと押えるべきなのである。
 つまり「新左派」にとって文革の失敗とは、毛沢東の文革理論がはらんでいた新しい要素が同時に並在した古い要素に妨げられて十分その力を発揮できなかったということなのだが、問題の所在はそこにではなく、まさにその新しい側面そのものに「大民主」は構造的に含まれていなかったのである。


 (2)「走資派」規定の問題


 劉少奇らを「ブルジョア階級の立場に立つ者」と規定したこの「走資派」論こそ「文革徹底否定」論が誤りだと厳しく批判したものだが、「新左派」もそこに問題があったことを認めている。
 崔之元:「毛沢東文革理論の積極面は毛沢東が正統マルクス•レーニン主義を突破し、『大民主』と結びついていない生産手段の共有は人民が主人となった社会主義の方向を決して保障するものではないと断定したことにあった。しかし毛沢東の文革理論には重大な誤り〔原文「失誤」〕があった。その核心はやはり彼がマルクス•レーニン主義の教条主義的な制約を脱することができていないことにあり、『大民主』制度の建設に適合した新たな『言語構造』を創造できなかったことにあった。彼の『党内走資派』、『共産党内のブルジョア階級』という言い方はマルクス•レーニン主義の教条的な『旧言語構造』から十分に脱することができていないことに由来しており、それは実際の運動のなかで常に誤って用いられ、毛沢東の最初の意思と異なる結果を生み出したのである」。
 粛喜東:「文革の意義をさらに全面的に総括するに当たって、われわれは『人民内部の矛盾を正確に処理する』という範例に立ち戻り、文革を人民内部の矛盾を処理する方式を見つけ出す大胆な試みと理解しよう。•••文革を人民内部の大民主をおこなう大胆な試みと見るか、あるいは人民大衆が『官僚主義者階級』を打ち倒す政治大革命と見るかがキーポイントなのである」。
 崔之元はここで毛沢東が「官僚主義者階級」という新たな認識を示しながら再び「走資派」という古い言葉に戻ったことを言っているのだろう。だが毛沢東の「官僚主義」批判、共産主義建設論には大衆の自立という意味での民主の復権は含まれていなかった。「文革綱領」(「十六条」)が「群集自己解放自己」、「群集自己教育自己」と言う魅惑的な言葉を含んでいたにしてもである。
 それに毛沢東思想が新たな「言語構造」を作り出すに至らなかったと言うが、文革は「文革言語」さらには「大批判」言語という独自な「言語構造」を新たに生み出したとも言えるのであり、そこには文革のはらんだ「解放性」とその転化形態、堕落形態としての邪悪な抑圧性が十二分に示されたのである。
 崔之元、粛喜東らにとって「走資派」規定は古い認識(「階級闘争理論」)の残滓であって、彼らはそれを中国共産党マルクス主義のスターリン主義的性格、その政治的他者の見方における根本的な問題性とは見なしてはいない。
 彼らが毛沢東や文革での「誤り」について「失誤」という表現を使っていることに注目しよう。普通「誤り」の中国語は「錯誤」という字を用い、それが政治的誤りあるいは路線的誤りを意味する場合には厳しい批判と自己批判の対象となり、ときには政治生命に関わるものとなる。だが「失誤」は基本的には正しい立場に立った上での部分的誤りというニュアンスのものであり、「新左派」にとって毛沢東の「誤り」はそういうものと見なされているわけである。
 だが文革において起こった政治と言語の堕落の重要な原因の一つはまさにこの異なる意見や異論の持ち主を敵階級のものと見ることにあった。この見方は本来のマルクス主義さらにはレーニン主義にもなかったものであり、それはレーニン死後の厳しい党内闘争の中で形づくられ、三〇年代の大粛清のなかで完成した姿を取るに至ったスターリン主義政治思想の特性の一つであった。中国共産党は当初からこのスターリン主義の特徴的な政治他者観を引き継いでおり、毛沢東もまたそれを強烈に引き継いでいる。
 そしてそれが中国共産党の誇る「整風」、「思想改造」と結びついたとき、その打撃力は恐るべきものとなった。つまりそこでは「誤り」や異論は政治的なものにとどまらず、倫理的、人格的なものと見なされ、したがって「自己批判」もまた政治的な次元のものではなく、批判者への自己解体的一体化以外は容認されることはなかった。


 (3)世界的な革命情勢の後退――文革敗退のもう一つの原因


 文革の盛衰を当時の国際的な階級闘争の中で捉える必要があると強調しているのが粛喜東である。
 「一度は『中国コミューン』という最高の理想へと突撃した文革大衆運動がなぜ急進的な高潮から後退したのかを理解しようとすれば、第二次大戦後の東西の社会主義と資本主義との抗争の中での新中国の特殊な位置、六〇年代に入ってからの全世界的な反体制運動の高潮、および全世界的な革命運動の交錯と不均衡な発展を理解しなければならない」。(「文革を取りまく世界と歴史的時期――文革大衆運動の発展、終結の別の原因」)
 粛喜東は一九六〇年代後半の一時期をいわば「戦後第二の革命期」と見なしており、「パリ五月」を始めとするヨーロッパ諸国、東欧、アメリカ、東南アジア、日本、等々でのこの時期の運動を列挙している。\n 「文革中のパリ•コミューン式の斬新な新社会を建立しようとする社会的思潮と大衆運動の波の高まり、そして欧米での反体制運動の激動と高まりは、一九六七年から一九六八年にかけて同時にその頂点に達していた」。
「欧米諸国での反体制運動が資本主義内部に震動を生み出し、堡塁の内部から資本主義の核心部分が瓦解する可能性がある状況は、文革の大民主にきわめて大きな活動空間を提供した。六〇年代の末になって欧米の反体制運動の退潮が始まり、中国の文革のこの空間は次第に閉ざされた」。
 以上の把握との関連でわれわれの関心を強く惹くのは「七•三布告」についての粛喜東のとらえ方である。「七•三布告」とは一九六八年七月、中国共産党が公布した「広西問題に関する布告」のことであり、そこでは中央の命令に反して「武闘」を続ける者は「反革命」として鎮圧すると明言されており、これによって文革造反派運動が事実上解体に追い込まれた重要な文書であり、文革の画期となったものである。
 毛沢東がなぜこの布告を出したかについては、従来、毛沢東の文革路線から左にはみ出した部分への弾圧と理解されてきた。その側面は否定できないと思われるのだが、粛喜東の文章の功績はそれを「戦争が革命を阻止」した例として取り上げ論証した点にあった。
 つまりベトナム戦争の激化が文革大民主を後退させたと言うのである。粛喜東の「戦後第二の革命期」の把握がどの程度の深みがあったかはさておき、文革の崩壊は「四人組」がでたらめな事をやって人望を失ったのだという「文革徹底否定」論の大キャンペーンにわれわれにしても多かれ少なかれ影響されてきた経過を経てきた今日、その主張はあらためてわれわれの文革の見方を啓発する意義を持つと言えよう。


 4.文革再評価と中国ナショナリズム


 ところで先にこれら「新左派」たちによる文革再評価がインターナショナルな立場に立っての革命の復権ということではなく多分に中国ナショナリズムに傾斜する傾向を帯びていることにふれた。これらはどういう文脈になっているのか。
 その一つは「新左派」の主張が中国国内での「不公正」の問題と共に国際的な「不公正」への抗議をベクトルにしていることに関連している。「社会的平等と社会的公正は国内的平等を含みもすれば国際的平等をも含む」(汪暉)ものだからである。
 もう一つは彼らの「自由主義」批判の重要な柱の一つとして、「自由主義」が依拠する西欧民主主義そのものの評価の問題があり、 「新左派」はそれに対抗しうるものとして文革での「大民主」を高く評価し、多党制を批判している。
 つまり「新左派」による文革再評価は西欧民主主義に対する「中国の特色ある」政治的、経済的制度の見直しという文脈の中で主張され、それによって当局に黙認されているという側面を持っていると見るべきなのか。
 彼らが中国共産党政権を直接批判することなく、また「経済文革」の主張にとどまることもその結果である。


 4.「自由主義」派の批判 


 さて以上のような「新左派」の文革の見方は中国社会の公的世論を形成している「文革被害者」たちの驚きと憤激を呼び起こすと共に、長きに亘って「文革徹底否定」論と鄧小平の「不争論」(論争をするな)のもとに封じ込められてきた文革への種々の思いを解禁することにもなった。
 だがそれは「自由主義」にとっては容認できることではなかった。その主要なイデオローグたちの多くが元造反派紅衛兵であり、一九六八年以降の毛沢東による弾圧のもとで、多くの模索を通してついに毛沢東の思想と言語を対象化しつつその圏域から脱してきた彼らにとって、今になっての「新左派」たちの文革再評価はそれでは自分らの苦闘は何だったのかということになるからである。
 そしてそれは文革の総括の仕方にとどまらず、「自由主義」にとって「新左派」の「政治民主」、「経済民主」の主張は、中国の将来展望にとって有害なものであった。現在の市場化の先に、今日の中国共産党の専制ではない政治的自由の道を、文革や天安門事件のような「急進主義」的方式ではない形で実現しようというのが「自由主義」の展望だったからである。当然彼らは厳しい批判をおこなっている。
 「新左派の致命的な欠陥は実際から離れ、自分が先に設定した結論に達するため、自分が学んだばかりのヨーロッパの最新の学説を披瀝するため、中国の歴史と現実を歪曲し、ばらばらにして自らの理論的枠組みに無理に取り込んでいることである。甘陽と崔之元は九〇年代の初め、中国知識界の主流がヨーロッパの経験を妄信する制度フェティシズムに陥っていると非難した。彼らはヨーロッパの最新の学問と大躍進、人民公社、文化大革命から発掘した制度創新的要素を大いに発揚すればすぐさまヨーロッパのモダニティーを超越できると考えた。だが彼らの高論を中国の現実と比較するとき、それは人に泣くに泣けず笑うに笑えぬ思いを抱かせるだけだった」。(徐友漁「中国九〇年代の新左派を評す」)
 これに対して「新左派」はこう反論する。
 「このような解釈はたちまち相手を攻めきれず自分で破産した。なぜなら九七年以降、長く大陸に住んで中国の国情を知り尽くしている多くの人たちが新左派となったからである」。(甘陽「中国自由左派の由来」)
 だが「自由主義」が「新左派」の提起に対して十分に反批判できているわけではない。それは「新左派」の文革論議が「自由主義」から見るといかに皮相なものに見えても、それが汪暉に代表される「モダニティーの超克」というダイナミックな構図の中に位置づけられ、そのとらえ返しが主張されるとき、それは一つの展望であるかの如き喚起力を持ってしまうからである。
文芸評論家の李揚はこう書いている。
 「『新左派』は九〇年代の市場経済の進行のなかで出現した問題に対抗して、『鞍鋼憲法』あるいは『文革』を参考にした建議を提起したのだが、これを自由主義者は心底から憎悪した。だが注意すべきは、彼らは往々にして感情的な記憶の角度から『新左派』の建議を排斥したのであり、決して具体的な学問的な回答ではなかった」。(「『悪魔化』された学術論争」)


 1.「新左派」文革論の水準――理論以前の事実認識の誤り


 「新左派」の文革再評価に対して「自由主義」はまず事実認識においてまるで話にならないと言う。
  徐友漁:「〔「新左派」の〕高論は理論的に反駁されたが、さらに簡単かつ基本的なことは事実面にあり、肝心なことは彼らが称賛する極左路線の産物は、その性質と作用において彼らが美化したようなものではまったくなかった。たとえば政社合一〔政治行政機構と管理機構が一体〕の人民公社とは人々を、『一平二調』〔均等に分配し資材や人を無償で徴用する方式に隷属させること〕を可能にしたものであった。だが人々が生産手段と土地を支配した後、初めて民主選挙と自治の前提が生まれるのである。『「鞍鋼憲法」』の最大の弊害の一つは、工場の中の規則制度を打ち壊したことであり、技術者の生産管理における有効な機能を取り消したことであった。そして毛沢東の『七、八年たったら文革をまたやる』という言葉は、人がそれを聞いただけで顔色の変わる『階級闘争を大いにやる』、『一切の牛鬼蛇神を一掃せよ』ということである。これらすべてのものはそれが大々的に打ち出されたとき『新生事物』、『偉大な創挙』と称揚されたのである。新左派は決して新たなものを創り出したのではなく、死者の霊魂を呼び覚ましたのであり、こうして民族の傷の痛みに乱暴に触れたのである」。(「九〇年代の社会思潮」)
 そしてこのような主張の「新左派」の路線性格は、ヨーロッパの「新左翼」がスターリン主義批判をくぐり社会民主主義に接近しているのに比べ、フランクフルト学派的なヨーロッパ•マルクス主義の影響下にスターリン的「左翼性」を評価するようなものとなってはいないかというのが「自由主義」の見方である。
  秦暉:「中国の言葉の文脈における『新左派』の思想は、スターリン的体制と社会民主主義の間にではなく、スターリン的体制と『ヨーロッパマルクス主義』の間に位置するものであり、当然、自由主義的色彩の社会民主主義からの距離はさらに遠いものである。中国『新左派』の一部の人々は改革開放前の旧体制から資源を吸収することを極めて強調し、『人民公社』は経済的民主の模範であり、『文革』は政治的民主の模範である、等々と考えた」。(「現代中国の『主義』と『問題』」)
 これに対して「新左派」は「自由主義」の文革の見方は当局の「文革徹底否定」と同じではないかと皮肉っている。
 李憲源:「文革の打撃に深い怨恨を抱くあれら中国の威風地を払う権力エリートたちと、同様に文革の打撃に深い恨みを抱く中国の自由主義の思想エリートたちとは天然の政治的同盟関係にあるのだ」。(李憲源「女やもめ、情人、『取り持ちや』および無能者、烏合の衆」)\n 「自由主義」はそういうことではないのだ、自分らの主張は文革をくぐってきた者たちの切実な総括なのだと言う。
 朱学勤:「ここでわれわれはあの時代をくぐってきた者が身に沁みて感じている反省について述べてみたい。自由主義派の世代のなかには文革中•後期での反逆思潮を経てきた者たちが沢山いる。その思潮の基本的特徴はまさに今日の新左派の主張のごときものだったのであり、だからこそ当時の毛沢東のユートピアの熱狂に陥ったのである。スターリン体制の失敗をいかに免れるかについては、韓毓海〔「新左派」の指導的イデオローグの一人〕の文章が披瀝した知的系譜から見れば、まずトロッキーがスターリンを弾劾した『裏切られた革命』とその『永久革命論』、つぎにジラス『新しい階級』、最後に毛沢東晩年の『プロレタリア独裁下の継続革命という偉大な学説』が挙げられている。そしてこれらこそはまさに当時の青年反逆者の世代すべてが探し求めて徹底的に究めた知的系譜であった。この知的系譜上で生きていた者たちには一つの共有点があった。彼らはスターリンの『左翼性』に反対するのではなく、その『右翼性』に反対すること、経済的にはソ連体制よりさらに左翼的に『生産手段の所有制を改造』し、政治的にはソ連体制よりさらに『広汎』かつ『直接的な』大民主をおこない、それによって社会主義の名誉を挽回することを主張したのである」。(「一九九八年自由主義学理の言説」)
 「一九七八年以前には、われわれは閉ざされた環境の中で模索していたので、当時の官僚体制への批判を、これら知的系譜の枠内をぐるぐる巡りながら、曲がりくねった形で表明できただけだった。一九七八年以後、世界的規模での学術思想の情報に接することが可能となり、われわれは国際共産主義運動の内部で左派としての思想材料を探すという狭い範囲から抜け出すことができて、•••ようやく今日のこのような認識に達したのである。•••この認識は学校の図書館で学び取ったものではなく、血の通う身体を切り刻む痛みのなかから煮つめられたものでもあった」。
 これら「自由主義」の主張には文革をわが身でくぐってきた者たちの迫力があると言えよう。毛沢東が造反派への弾圧に踏み切った一九六七年後半以降、彼らは必死になって自分らの立場を思想的、政治的に再確認しようとして多くの文献を研究し思索している。
 湖南省無聯に関する優れた本(『北京と新左翼』時事通信社、1970)を書いたクラウス•メーネルトは楊曦光「中国はどこへ行く?」について、彼らがジラスの『新しい階級』を読んだとは思えないが、分析の仕方は瓜二つだと述べていた。
 だが彼らは読んでいた。それどころかそれは彼らに最も大きな影響を与えた本だったという。さらにはマルクス「フランス三部作」、トロッキー『裏切られた革命』、『スターリン』までもが読み込まれている。
 だが「新左派」による文革再評価の登場には二つの要因があった。その一つは「文革徹底否定」論の問題であった。それについては朱学勤自身も「今日の新左派思潮の出現は文革を簡単に否定したことの報いであり、懲罰でさえあるのだ」と認めている。
もう一つは「自由主義」が「改革開放」が生み出した社会的現実に有効な対応をイデオロギー的に提起できていないことにあった。徐友漁が現在の中国は汪暉の言う「モダニティーの超克」が課題となっているどころか、資本主義と市場の積極的意義の汲みつくしの先に政治の民主化をふくむ中国の展望が切り開かれるのだと言っても、その資本主義と市場の権力による展開の中から深刻な社会的差別が顕在化してきている今日、それは説得力を欠くからである。
 しかしまずは「自由主義」による「新左派」批判の内容を見ておこう。


 2.「鞍鋼憲法」の評価について


 崔之元の「鞍鋼憲法」の評価について徐友漁は「中国の現実を知る人々をあいた口がふさがらなかった」と述べていたが、その歴史的推移を記したものに高華「鞍鋼憲法の歴史的真実と『政治的正確性』」がある。彼もまた「これらの論述を読んだとき、私はきわめて怪訝に思った。これらの研究者が提起したそういう判断の事実的な基礎が確かであるか否かについて私は大いに疑問を持っている」と言う。
 高華は「鞍鋼憲法」提起の歴史的経過をたどりながら、その実態についてこう述べている。
 「問題は鞍鋼が採用したこの改革はつまるところ労働者が自発的に望んだものなのか、それとも指導者が強力に引っ張ったものなのかということである•••事実が証明していることだが、それは毛沢東の主観的理念が強力に導き、促した産物であった」。
 職場では「大弁論」がおこなわれ、労働者たちは合理化に向けての何万件もの提案をおこなっている。そして熱気の中で各種手当ての取り消しまで決議されている。
 「だが一九五九年に入ってから鞍鋼の生産状況は危機を示し始めた。原材料と電力の供給が厳重に緊張し、鞍鋼の生産は断続的にストップした」。
 そして栄養不足による病気が広がり、労働者たちの不平不満話が広がっていく。ここではその原因について深く立ち入ることはできないが、要するに「大躍進」時に中国産業を襲った現象が鞍鋼にも現れたのである。
 興味あるのはそのとき鞍鋼の党支部が取った措置である。彼らは「階級分析」をおこない、「大批判」によって労働者の生産意欲を向上させようとしたわけである。生産の後退、職場の労働意欲の衰えを政治的不満分子の陰謀と見て、「積極分子」を動員してそれを暴露し吊るし上げるお決まりのやり方である。
 「歴史がわれわれに告げているように、当時の鞍鋼憲法はただ一つのユートピアの未来図でしかなく生活の現実ではなかった。現実の企業制度は当委員会の指導の下にあって、書記が指揮していた」のであり、そこでの「大民主」の崔之元の評価の仕方は「曲解されたユートピアの未来図」でしかなかった。(何家棟「ポスト•モダン派はいかに現代用語を流用しているか――『経済民主』と『文化民主』を評す」)


 3.「自由主義」の文革総括の仕方――「大民主」の批判


 自らの造反派としての経験とかっての造反派の指導的メンバ―百余人からの聞き取りによって『様々な造反――紅衛兵の精神的素質の形成と変遷』(中文大学出版社、1999)という優れた文革総括を書いた徐友漁は、歴訪の先々で「大民主」がいかに自分らにとって解放であったかという元造反派たちの証言に接している。
 だが今日、徐友漁はそれに否定的である。
 「私も文革のなかでおこなわれた大民主がある人々に以前彼らを圧迫していた官僚たちに反抗することができる一種の形式と手段を獲得したと思わせたことを認める。だがこの種のものは真の民主とはまったく共通するものはなく、益するものより弊害の方が大きかったと考えている」。(「総括と反思」)
 「まことに文革のなかで大衆が実権派に大字報を貼って彼らを暴露し批判することができたということは文革以前にはできなかったことである。だがこれは大量の『党内走資派』を攻撃し打倒するという文革の戦略の一環でしかなかった。『文革』中の大民主とはどんなものだったか? たしかに大衆には指導的幹部を暴露し批判する言論の自由があった。だがそれは『文革』中に定められた基準に照らしてある幹部が「走資派」であるか否かを争論する自由でしかなかった。一般的に言って、この範囲を越えた言論の自由はなかった。『文革』中に公布されたいわゆる『公安六条』がその最も良い例である」。
 徐友漁の文革と毛沢東への批判は厳しく、ほぼ全否定である。これらは文革以降彼が積み上げてきた総括作業の今日的到達点である。
 「大多数の中国人にとって『文革』はすでに思い出すに忍びない往事となった。だが私と同年齢の多くの者にとって、『文革』はただ痛苦、恐怖、大災禍ではなく、彼らが『文革』について語るとき、彼らが『文革』のときどの党派に属していたかに関わりなく、総じて一種の懐旧の念と喪失感を伴っていた。彼らにとって『文革』は一つの砕かれた夢であり、彼らはこの夢に自らの理想、情熱、追求を託していた。彼らにとって『文革』は失われたきわめて心地よい栄光の歳月だったのだ」。
 「私にしても当然これら一世代の若き日の理想と情熱を抹殺したいとは思ってはおらず、自分自身その中の十分積極的な一員だった者として、彼らを理解し愛惜している。だが私は彼らが主観的なものと客観的なものを区別することを希望する」。
 「肝心なことはわれわれの世代は騙されたのだということを承認しなければならないということである。•••われわれの理想と情熱は弄ばれたのだ」。
 「私は『文革』の中で多くの若い学生たちが真心をもって真理を追求したことを承認する。だが多年来の極左イデオロギーの作用によって各種の紅衛兵理論はただ偽りの前提から演繹したものでしかなく、遇羅克らの文章を例外とするのみであった。中国の現代化、民主化の進行過程との関係でいえば、『文革』中の文章と理論は、そこに紅衛兵たちのどんなに多くの思考と探求が凝集されていたにせよ、すべて無価値である。たとえ〔文革〕後期に到って一群の紅衛兵たちが新たな認識を持ったとしても、それもまた『文革』が強いたもの、『文革』への教訓と反思の産物であり、それらの思想の成果を『文革』それ自身に帰すことはできないのである。悪事がときには良い結果を(高い代償を払ってだが)引出すからといって、われわれは良い結果のために悪事を働くことはできないようなものである」。  「自分は弁証法を捨てた」と徐友漁は言う。
 以上のような徐友漁の「総括と反思」は「新左派」たちの問題の所在に気づかぬままの文革再評価へ冷水をかけるものとなっている。
 だがここには微妙な問題があるように思われる。それは過去の経験の問題点の理論的根拠の認識の仕方なのだが、今日になって見えてきてことから過去を裁断するとき、その過去の清算の仕方が一歩間違えると人がこの現実に関わる実践的•理論的契機、回路の喪失となるという問題である。
 たとえば徐友漁は「中国は大きな災禍を代償に毛沢東主義と毛沢東式社会主義への別れを告げる機会を得た」、「文化大革命の災難は人々に毛沢東的社会主義の徹底的な破産を認識させた」と言う。(「社会の変動と政治文化」)
 ここには毛沢東の文革理論を部分的「誤り」とか部分的「悪」としてではなく、「誤り」そのもの、「悪」そのものとしてとらえ切り否定し去る意志が示されている。だがここに登場する先にふれた一つの罠、過去を総括する際に陥りやすい陥穽に徐友漁は必ずしも自覚的でないように思われる。
 たとえば徐友漁は「全体主義の思想的根源」を解明する作業の一環として、ポパー『開かれた社会とその敵』を取り上げ高く評価している。この本は読み物としてはきわめて面白いものだが、問題はそこでの「理論的根拠」の掘り下げの仕方である。
 ポパーはそこでマルクス主義の問題性をヘーゲルからさらにプラトンの弁証法に遡ってその理論構成の中に抑圧的社会の「根拠」を解明しようとしている。だがこういう「思想的根源」の掘り下げの仕方は根本的であるかに見えてどこかに錯誤がある。たとえば思想の型として見れば同一に見える理論も、それが現実化するに際して置かれる諸媒介によって別の性格、機能を帯びる。
 たとえばマルクス、レーニン、スターリン、毛沢東からその思想の抑圧的性格、型を抽出してそれを現実的抑圧の「思想的根源」とすることのどこに錯誤がはらまれるかといえば、抽出すれば一見同質のものとなってしまうそれらも、実際には各々のニュアンスやベクトルの差異を持ち、それはそれが置かれる諸条件、諸関係のもとでまったく別の働きをもつものとして現実化する(たとえばそれへの対抗思想や政治的対抗力の有無は大きな作用力を持つ、というように)ことが見落とされているからである。
 思想とその現実化の間にそれを媒介する以上のような諸条件、諸関係が果たす作用があるからこそ、人はある思想に対して否定か肯定かの二者択一ではない接し方、評価の仕方(「批判的継承」とか「弁証法的止揚」とか)が可能となるのである。それはそういうとらえ返しも可能ということではなく、どの思想もとらえ返しを可能とする側面を持っているということであろう。
 だからこそある局面である積極性を持っいた一つの思想が、何を契機にその堕落、退廃、敗北形態へと転化したかの見きわめが可能となる。
 ここでのテーマで言えば、当時の現実の中で「大民主」のはらんだ理論的•実践的な射程力、それが諸関係の中で造反派を鼓舞したことなど無意味とされて「走資派打倒の戦略の一環」に切りつめられ、それが本質だとされてしまうことである。ここからは「大民主」に批判的にであれ、肯定的にであれ総括的に関わる契機は失われ、ただ否定があるだけとなる。すなわち現実への理論的•実践的契機の喪失であり、その空隙はまったく別の新理論(種々の自由主義理論)によって埋められねばならないこととなる。たとえば徐友漁自身、文革のある局面での経験をつぎのように回想している。
 「差別、排斥され、打撃を受けてきた学生にとって、一九六六年、『毛主席を筆頭とする党中央』の名で公布された二つの文書は終生忘れがたいものとなった。•••ほとんどの造反派積極分子がはっきり覚えていることだが、彼らがこの二つの文書の内容を知ったときどれほど感動し喜んだかは、あたかも死刑囚が釈放されたかのようであった。•••彼らは当時の気持ちを期せずしてつぎのように表現した。『革命方知北京近、造反方覚主席親』(「革命してはじめて北京の近きを知り、造反してはじめて毛主席の親しきを感ず」)」。(『歴史に直面する』中国文聯出版社、2000)
この「二つの文書」とは一九六六年一〇月、毛沢東と中央文革がそれまで曖昧だった文革の闘争対象を明確に「ブルジョア反動路線」に絞ったときの提起であり、それによってそれまで劉少奇、鄧小平主導下の工作組によって弾圧されていた「出身不好」の造反派の復権がなされたのである。
この時期、毛沢東と中央文革の路線はそれが可能性としてはらんでいた「解放性」の頂点に達している。陳伯達のこの講話は劉少奇、鄧小平に連なる驕り高ぶった高幹子弟ら「老紅衛兵」の「血統論」を打ち砕き、江青もまた「血統高貴が何だと言うのだ」と叫んでいる。
「この一時期、毛沢東と中央文革小組はこれら圧迫され、迫害された造反派の盟友であった」。(粛喜東「文革の中での指導者と大衆:言葉、衝突と集団行動」)
それもまた徐友漁が言う「走資派」打倒の「戦略の一環」でしかなかったと見なすことは可能である。だがそれを「悪事がたまたま良い結果を引き出したもの」と見なすことはどこかに錯誤がある。
良きこと(ここでは「解放性」)が純粋に確固として完成した姿で出現するということはないのであり、それは「すぐ目の前にある、与えられ、持ち越されてきた環境のもとで」(マルクス『ブリュメール十八日』)、限界を帯び、諸関係のなかで一歩まちがえればその退廃形態、敗北形態へと容易に転化しかねない脆さをもって登場する。
徐友漁がなすべきだったのは、当時このように造反派を鼓舞した毛沢東と中央文革の路線がどのような問題点を持ち、いかなる文脈の中で否定的なものとなったかの解明であり、今日の到達点からそれを全否定することではなかった。
徐友漁が数少ない例外とする遇羅克は紛れもなく文革のなかで現れた優れた資質を持つ思想家である。その文章には当時隆盛を極めつつあった姚文元らの「大批判」言語とは異質の論理と文体が示されている。
「文化大革命はまさしく彼に文革前の一七年に造反する機会を与えたのであり、文革がなければ彼の『出身論』もなかった。だが他方、遇羅克は紛れもなく文革において重刑を科せられ、のちに銃殺されたのである。このことは文革の両面性を典型的に示している。それは解放的な一面と抑圧的な一面を併せ持っていたのである」。(祝東力)
どこか詭弁のにおいもするこの言い方の中には、しかし文革を見ていくに当たってわれわれが熟思しなければならないある真実もある。
徐友漁も編者の一人である『遇羅克 遺作と回想』(中国文聯出版公司、1999)を見るとき、遇羅克もまた当時のイデオロギー世界と無関係に登場した突然変異だったわけでなく、「出身論」以外の「聯動」(中央文革を公然と批判した老紅衛兵組織)を批判した文章はきわどく中央文革の「走資派」批判の文章に近づいている。


4.「走資派」論の問題


「大民主」の問題性を「走資派」論との関係で分析したのが?小夏「文革と毛沢東の偽の急進主義イデオロギー」である。かって「李一哲」グループに属していた彼女は、天安門事件以後「海外民運派」としてアメリカからの帰国を認められていない。今回「自由主義」としてこの論争に加わっているわけではないが崔之元の文革論文は読んでおり、この文章もその所論の検討から入っている。
彼女はまず崔之元の「毛沢東は正統マルクス主義を超えた」という主張には初歩的な誤りがあると言う。普通、西欧の論者たちが毛沢東の文革思想の新しさと言うとき基準としているのは正統マルクス主義ではなくスターリン主義なのだが、崔之元はその前提的なことを分っていない。
「だから毛沢東の文革思想の評価に当たって問題はこう提起されるべきなのだ。すなわち毛沢東の思想とその文革における実践はスターリン式社会主義の教条性をどれだけ突破したのか? いわゆる毛沢東的な急進的理想主義はスターリン主義からどの程度に急進的理想主義――それがどう理解されたものであれ――の方向へ改良あるいは革新したのか?」
彼女の結論はこうである。
「1、毛沢東はこれまでトロッキーやジラスのように共産党官僚集団を人民を搾取、圧迫する新階級と見なしたことはない。彼の『党内走資派』あるいは『党内ブルジョアジー』についての告発は自由化傾向を持つか、そう嫌疑をかけられた共産党の指導的幹部に対してのものであり、そこには彼の政敵および党内の彼に不満を持つ者たちが含まれていた。
2、毛沢東が文革の中で提唱した『大民主』は政治上の極度の高圧性を前提にしていた。『大民主』のもとで公民としての人身の権利を保護する正規の法制は跡形もなかった。毛沢東および共産党統治に不満を抱いている、あるいは破壊しようとしているとして告発された人は党員であれ非党員であれ大衆組織の容赦ない打撃に晒された。
3、毛沢東の社会改造方案は人民の生活方式と職業上の選択権を根本から剥奪し、軍事化手段をもって社会を組織し、まさに人民全体を党政合一式の国家の全面的支配のもとに置くものであった。
•••私の見るところ、毛沢東式の文革思想は急進主義的な外観を持っていたとはいえ、本質的にはスターリン主義の復刻版でしかなく、スターリン式の政治的、社会的専制主義のさらに厳しい表現形態とすら言えるものであった」。
このように*小夏は毛沢東の文革と「大民主」についてほぼ全否定している。ここで興味あるのは「走資派」とは毛沢東への異論、その政敵に対しての規定だったとされていることである。ここには「走資派」規定に対するかっての造反派たちによる見方の変化、反省がある。
王希哲はその文革総括(「毛沢東と文化大革命」『中国研究』№123,124、日中出版)で、毛沢東への幻想が砕かれるにつれて「走資派」なる層への見方が変わったと述べていたが、*小夏も同じ見方をしているのかも知れない。
文革終焉後、その代表的な被害者として劉少奇には多くの同情が寄せられてきた。だが少々意外なことに造反派たちの劉少奇への批判は当時のみならず今日なお厳しいものである。
「文革初期の劉少奇、鄧小平のこれらの悪行〔工作組による造反派大弾圧〕について、中国共産党とその御用文人たちは多年に亘ってひた隠しに隠してきた。それはまるで劉少奇、鄧小平が文革中に毛沢東によって粛清され、虐待されたことで、その悪行は都合良く抹消すべきであるかのようであった」。(劉国凱「六六年夏――民衆に向けられた災難」)
「中国共産党系でない非官方人士たちの多くの文革著作においても、往々にして劉少奇の身に起こったことには甚だ多くの同情が寄せられるのに、数多くの第二次『反右』の犠牲者には関心を抱かず無視し一言も触れることがない。このような貴族と平民に対する二重の標準が今なお通用しているのは思っただけでも人の心を寒むからしむることである」。
「劉少奇が責任を負うべきことは実は非常に多いのである」。
 劉少奇が国家主席という権力階層にあって人々の運命を左右できる立場にあったことを考えるとき、単に毛沢東への異論の持ち主だったと見るのは妥当か、毛沢東の劉少奇「走資派」規定はただ誤りだったかという問題はトロッキー以来のスターリン主義官僚規定の問題としてそれとしてあるわけだが、毛沢東のそれが階級分析に裏打ちされないスターリン主義的他者批判の一つの典型であったことは否定できない。
 ところで以上の「大民主」と「走資派」論の問題をわれわれ自身の運動経験との関係でとらえ返せば何が見えてくるのか。
 「四大」が自由な日本のわれわれにとって「大民主」の意義を実感として感じ取るのは難しい。だがわれわれもまた一九六〇年代から七〇年代にかけて一たびは獲得した「大民主」をその意義をつかめないまま、粗略に扱い、乱費し、とどのつまりは失ったのだと認識すべきなのである。どういう意味か。
 「大民主」の意義をスターリン主義との関係でとらえ返せばわれわれにとっても分らないことではない。日本共産党のかってのイデオロギー支配の呪縛力は今ではピンとこないが、それを打ち破って以降、党派間対立の「内ゲバ」的堕落、退廃に至る一時期全体に亘って新左翼運動はいわば「大民主」を手中にしたわけである。\n だが当時その固有の意義は理解されていない。それはあくまで革命にとっての手段と見なされていたのであり、その限りにおいて党派的利害が優先されるのは不可避だった。だがこの言い方は正確ではない。運動が一たび発展するや党派的に避けがたく分岐し、その間の対立と共同が展開されていくのは、各派が党派利害に固執したからということではなく、それが現実的基礎を持つ大衆運動の場合不可避な過程なのである。
 警戒すべきなのはこの分岐なのではなく、むしろこの分岐が強いる緊張に耐え得ず、それは本来あるべきことではないとして理論的、物理的に抑圧する動きであり、それらこそ共産主義の名において開かれた政治空間を抹殺しようとするものである。
 と言うのも、将来の共産主義においては民主主義もまた死滅する、そこでは政治的異論などなくなる、すなわち政治的他者問題そのものが消え失せるのだというのがレーニン「プロレタリア民主主義」論の眼目なのであり、新左翼もそれに何の疑いを持つことなく、マルクス共産主義論もそう読み込まれてきたからである。
つまりそれは党派的利害を優先したなどということよりもっと根は深いのであり、自分らの「将来の共産主義社会」論そのものによって日本のこの「大民主」の意義、その維持、防衛、発展など理解できなかったのである。
「内ゲバ」――それは革命運動における政治的他者問題という避けがたく普遍的な問題の特殊形態、敗北形態、堕落形態なのだが――もまた「将来の共産主義社会」の名の下になされたものである以上、その総括は「異論や党派間対立、民主主義そのものが死滅する将来社会」論そのものに及ばなければならない筈である。
 「走資派」問題とはまさしくこの政治的異論、政治的他者の問題である。この問題が厄介なのは、政治の場では意見の違いがただ意見の違いとして向き合うのではなく、そこに階級間の問題、支配と被支配の問題が絡まることをめぐっていた。さらにそこには意見とその物質的基礎というマルクス主義のイデオロギー論が関与する。こうして異論=敵性のもの、そうでなくとも「主観的にはともあれ、客観的には」という論理が一つの鋭さであるかのように不可避に登場する。
 必要なことは将来社会においては意見の違いそのものが消滅する、そこは「物の管理」をめぐる「統制と計算の単純な作業」(レーニン)の世界だなどという認識は誤りなのだということをはっきりさせることであろう。


   5.「告別革命」論の問題


 以上のように「自由主義」の文革総括は「新左派」の甘さを突き崩す迫力を持ちえている。彼らの文革と毛沢東批判は部分的な批判にとどまることなくその理論的、思想的根拠そのものを抉り出そうとしている。朱学勤はこの問題を中国近代史に中に探ろうとして、中国革命の原動力となった「民衆主義」(「民粋主義」)、「民族主義」の二つそのものが問題だったと言う。(「五四以来の二つの精神的『病巣』」)
 だがここには先にふれたように難しい問題、陥りやすい一つの罠があった。こうして「革命」そのものがこれまでの神聖さを剥ぎ取られ、問題的なものとなる。
 李沢厚、劉再復『告別革命――二〇世紀中国を振り返って』(天地図書、1995)はそうした雰囲気の中で出版されている。両派に属しているわけではない李沢厚はこう言う。
  「七〇年代末から、私は何度も述べてきたのだが、国内や国外での影響の大きかった革命について、フランス革命を含めてロシア革命、辛亥革命等々をあらためて再認識、研究、分析、評価をすべきであり、革命方式の弊害、それが社会にもたらす各種の破壊を理性的に分析し、諒解する必要がある」。
 「私自身は文革後の反革命的気分の代表である」という楊曦光もまた、長期投獄の中での研究と思索、中国の現実の分析の結論だとして「革命」についてつぎのように述べている。
 「私には二つの基本的観点がある。その一つは革命という方法によって専制を打ち倒すことはできない。二つは革命は民主化の過程を繰り延べてしまう。さらに言えば、現代の条件下ではもし国と国との戦争がなければ、上層階級内部の大規模な衝突や代理人間の戦争的な局面がなければ、革命という手段によって一つの専制政体を打ち倒すことに成功する確率はほぼ零に等しい。言い換えれば私は革命を主張しない。なぜならまさに一九四九年の革命が中国民主化の過程を数世代にわたって遅らせてしまい、ロシア革命がソ連の民主化を挫折させたように、革命は民主化の過程にとって無益だからである。したがって革命を阻止することが今日の中国の改革にとって十分に重大な現実的意義を持っているのだ」。 (「革命と反革命およびその他」)
 これが一つの歴史的な革命のあとに必ず生み出される「反革命」の情緒、心性、イデオロギー、思想なのか、それとも「戦争と革命の時代二〇世紀」を経て成熟した政治的思惟、智慧なのかは「自由主義」、「新左派」双方の内部でも論議があるようである。そしてそれは他人事ではないわれわれ自身の考察課題でもある。

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 楼主| 发表于 2017-6-4 03:29:44 | 显示全部楼层
中国の「新左派」•「自由主義」論争 NO.2
  ――「二つの文革」論をめぐって                 


時田 研一           

  注:   
 第3号で当局の「文革徹底否定」論を「新左派」に先立って批判し、「文革二年(ないし三年)」説、「毛沢東の文革、人民の文革」という「二つの文革」論を主張しているかつての造反派紅衛兵の一部の論者たちにふれた。
 彼らが両派の論争に加わっているわけではなく、またそこでこの問題が直接争点の一つとなっているわけではない。だが「新左派」は当局の「文革徹底否定」論、とりわけ「自由主義」の文革総括を批判するに当たって「二つの文革」論の基礎にある「社会的衝突」論や「文革二年(ないし三年)」説に助けられている。その上で彼らは「二つの文革」論の「毛沢東の文革」の見方への批判を行なっている。 ほとんど救出する余地がないかに思われ、またその諸結果が日本のそれの比でない傷跡を持つ文革についてなお行われているこれらの作業は、「内ゲバ、連赤」以降の悪評のなかにある日本の新左翼運動の真っ当な総括にとっても意味あるものだろう。
 ここでも前回に倣って彼らの見解の一端を紹介し、現時点でのわれわれの若干のコメントを付すというスタイルを取ることにする。そして余力があればいつの日かそれらを積極的な形で再構成することにしよう。
 なお引用の出展については著者•文章名以外は明示しないが、別記なき場合すべて中文サイトで公開されているものからである。(訳は少々拙速、杜撰)




☆ 目次 ☆

はじめに
 文革史は書き換えられた――「二つの文革」論登場の背景
一、「一〇年文革」、「十年浩劫」―――ネーミングはきわめて政治的だった
 1.「文革徹底否定」論の動機
2.新たな課題
二、「二つの文革」論の提起者たち
 ● 楊小凱――一「一九六六年八月から六八年は革命だった」
 ● 劉国凱――「文革には『人民の道筋』と『当局側の道筋』があった」
 ● 鄭義――「文革には第一の文革(は毛沢東の文革)と第二の文革(人民の文革)があった」
 ● 王希哲――「人民の文革には潜在的な発生過程があった」
三、「二つの文革」論の批判者たち
 ● 金春明――「共産党に反抗した造反派組織は一つたりともなかった」
 ● 徐友漁――「人民の覚醒は文革の結果だった」
 ● 粛喜東――「造反派と毛沢東、中央文革小組とは『政治連盟』の関係にあった」
 ● 芦笛――「異端思想と毛沢東の政治的理想の思考パターンは同じである」
四、引き出された問題点
 1.「毛沢東の文革」の評価の仕方
 2.「政治連盟」か「相互利用」か
3.「走資派」論
 4.毛沢東の「大民主」について
 5.「二年(ないし三年)文革」以外の時期は何だったのか
 6.思想の継承での媒介性
 7.「人民の文革」の総括
五、今後の検討課題――「告別革命」論をどう見るか

はじめに 文革史は書き換えられた――「二つの文革」論登場の背景

文革終息後、勝者たちによってなされた文革史の書き換えほど大規模空前かつ圧倒的に成功を収めた例は世界でも数少ないものであろう。有名な話として華国鋒、葉剣英らによって伝えられた江青•張春橋グループ(「四人組」)に対する毛沢東の言葉がある。
「〔『四人組』の問題は〕今年前半に解決できなかったら後半に解決する。今年解決できなかったら来年に解決する。来年解決できなかったら再来年に解決する」。
中国語の「解決」には「始末する、消滅させる」という語義もある。つまり「四人組」打倒は毛沢東の意思だったというのだ。しかし華国鋒らは毛沢東の亡き今ここでさり気なくちょっとした言語操作を行なっている。彼らは毛沢東が続けて述べた「江青たちは劉少奇批判、林彪批判で功績がある。小さな問題を大げさに取り扱うことはない」という言葉を省いたのである。こうして毛沢東の言葉のニュアンスはまったく逆のものへと描き出されることとなる。
もう一つ例を上げれば、一九七六年一〇月六日の江青•張春橋グループ打倒をめぐる問題である。それは彼等の「反革命的クーデター」の動きを「一挙に粉砕」したものだったとされてきた。
范碩『葉剣英在一九七六』(中共中央党校出版社、一九九五)という本がある。この時期での文革派と反文革派双方の動き、とりわけこれまでよく知られていなかった葉剣英らの「四人組一挙打倒」へ向けた「特殊な戦闘形態」の動向を詳細に追い、他の類書へのテキスト•クリティークも含むなかなか優れたものだが、そのなかに興味ある二つの記述がある。
「華国鋒は我慢して『四人組』が喋り疲れるのを待って発言せず、最後に江青に『あなたはつまるところ何をしたいのか?』と尋ねた。『三中全会の政治報告の起草について討論しようということだ』。江青はこの言葉によって機密を漏らした。張春橋が引き続いて『毛遠新を行かせることはできない。彼は三中全会の報告を準備しなければならない』と述べた」。
「嵐吹きすさぶ一〇月、一触即発の一〇月! この月、中共中央政治局と『四人組』の間の闘争は決戦段階に入った。この局面に臨んで事態は明らかとなった。『四人組』は戦いの準備をすすめ、武装騒乱を実行する配置についた」。
前者は毛沢東死後の政治局会議での紛糾の一幕である。晩年の毛沢東の「連絡員」として力を振るった甥の毛遠新を本来の任地である遼寧省に戻すかどうかで両派は対立したのだが、江青•張春橋グループはそこで三中全会での決着を準備しているという「機密を漏らし」た、と范碩はいう。
ところがもう一つの記述では彼らは「武装騒乱を実行する配置についた」と延べている。これは少々変ではないか。後者の証拠として、江青が「盛大な祝日を待て」、「身体を鍛錬しておけ」と指示したとか、王洪文が国家主席就任のための「肖像写真」を撮ったとかいうことが上げられている。
彼らは「クーデター」を葉剣英らのように極秘裏にではなく、祝祭のように華やかに前宣伝をつけて進めたというわけである。もちろん事実はそんなことでありえず、諸般の事情から察すればこの時期での江青•張春橋グループは政治闘争と組織会議の場での決着を図っていたと見るのが妥当なようである。
華国鋒らは江青•張春橋グループが「照過去方針辦」(過去の方針に照らして行なえ)という毛沢東の言葉を「按既定方針辦」(既定の方針にもとづき行なえ)に「簒改」したと非難した。たしかに姚文元らはそれがあたかも毛沢東の臨終遺嘱であったかのように主張し、自分らの権力掌握を有利にしようとした。だがそれら小「簒改」は華国鋒らの空前の大「簒改」に呑み込まれ無力化されたのである。
 ところが文革史の書き換えが真に大規模に、底知れぬ破廉恥さをもってなされたのは江青•張春橋グループに対してより造反派に対してであったという。「二つの文革」の主張者たちの念頭にあったのはまずそのことだった。劉国凱はこういう。
「中国共産党が中国大陸を統治して四〇数年、それがある程度成功したなどとするとすれば、それは文革造反派を邪悪なものに描き出したことが最も得意な傑作の一つと数えられるだろう」。(「略評文革造反派」)
たとえば文革初期になされた紅衛兵たちの蛮行として名高い「紅八月」の赤色テロルや「破四旧」、家宅捜索、等はじつは高幹子弟の「老紅衛兵」たち、今日、中国の権力中枢と社会の要所を占めている「太子党」の前身たちの仕業だった。
文革記録には多くの「家破人亡」(一家が悲惨な目に遭う)、「含冤而死」(冤罪で死ぬ)、「含恨而去」(恨みを抱いて死ぬ)光景が描かれている。世に伝えられたそれらの哀切な記録は、ふと考えればそのほとんどが「走資派」たち、高級幹部や高級知識人たちのものだった。だが実際には文革のなかで真に弾圧に晒されたのは造反派だったという。
「取り上げるに値する史実は、全国的に有名な大虐殺事件で殺されたのは、いわゆる『黒五類』(「地、富、反、壊、右」すなわち「地主、富農、反革命分子、悪人、右派分子」のこと)を除けば、大多数は『文革』のなかでの造反派だったことである。たとえば広西チワン自治区で一九六八年に殺された十一万人の無実の者たちはほとんど造反派だった。湖南省道縣で殺されたのは、その一部は『黒五類』とその家族だったが、その他の大部分は大衆組織『湘江風雷』に参加した造反派だった」。(宋永毅「『文革』中的暴力与大屠殺」)
当然それらは公認文革史には記されることもない。たとえば広西の場合などは「広西の大虐殺はあのように酷かったのだがのちに北京人の鄭義が書いた以外に、広西人自身が書いていない。なぜか? 広西造反派は抹殺され尽したからである」(劉国凱「致YQY先生的信」)という有様だったのである。
「中共の歴史についていえば、老紅衛兵の殴打•破壊•略奪、道縣の大虐殺、広西大虐殺はみな共産党の土地改革での大虐殺と一脈相通じるものである。文革中、造反派にも暴力行為があった。だがこの暴力行為は一つには分散的、かつ非組織的なものであり、二つにはその多くは恨みごとへの仕返し、冤罪に対して冤罪で報いるというものであり、三つ目としてそれは共産党的のあのように非人道的極まる系統的な暴力ではなかった。そして今日、当局の宣伝の中では文革での暴力はみな造反派の罪業となり、保守派の個々人は出世し、正しい路線の代表者となったのである」。(楊小凱「再談『文革』」)
「二つの文革」論はこうした書き換えに抗議して登場している。

一、「一〇年文革」、「十年浩劫」―――ネーミングはきわめて政治的だった

「二つの文革」論が言葉として登場するのは一九八〇年代になってからである。それは当局の「文革徹底否定」に対置してなされた造反派紅衛兵世代の文革総括であった。というのも一九八一年十一中総六中全会の「歴史決議」はこう述べていたからである。
「文革はいかなる意義からも革命ではなく、社会的進歩でもなかった。それは何らの建設的な綱領も提起せず、ただ混乱と破壊、後退をもたらしただけであった」。
「『文化大革命』は指導者が誤って発動し、反革命集団に利用されて、党と国家および各人民と民族に甚大な災害をもたらした内乱であった」。
「徹底否定」の言葉こそないが、「文革徹底否定」論の源である。文革終息後、すでに勝者たちによる「三種人」(「林彪、江青グループに追随して造反し出世した者、派閥意識の甚だしい者、殴打•破壊•略奪分子」)狩が過酷に展開されてきていたのだが、この「決議」をもって「文革徹底否定」論は国是となり、中国全土を覆い尽くしていく。
同時に「一〇年文革」、「十年浩劫」(「一〇年の大災禍」)という言い方も定着していく。文革は一九六六年五月の「五•一六通知」の採択を前後して始まり、一〇年後の一九七六年一〇月、江青•張春橋グループの失脚により終息したということになり、当局側の視点とは必ずしもいえない厳家棋、高臬の文革史も端的に『中国「文化大革命」一〇年史』となっている。(邦訳は『文化大革命十年史(上•下)』岩波書店、一九九六)
当初これらの表現に接したとき当時造反派だった劉国凱は怪訝な感じがしたという。
「七六年、四人組が失脚したあと葉剣英、華国鋒が、文化革命は現在すでに一〇年やってきた、今その終わりを宣言すると述べたことを覚えている。当時、私はそれを聞いておかしく思った。文化革命は実際にはとっくに終わっていたのではなかったのか? まだこのようにまことしとやかに正式宣告を行なう必要があるとは。しかしその後の発展につれて『一〇年動乱』、『一〇年の災禍』がつぎつぎと登場し、私はあっと気がついた。まず中国共産党の元老たちは隙につけ込んだのだ。つまり毛沢東が文革の終息を正式に宣言していないので、彼らがそれを宣布することができたのである。こうして六六年から七六年、すなわち一〇年文革論の基礎がすえられた。文革一〇年論のでっち上げには中国共産党の元老たち、最高指導部たちの緻密で、精巧な考えがあったのである」。(「略評文革造反派」)
ここには歴史のある時期、ある動機や意図のもとに産み落とされた概念や言葉がそれまでの現実に代替して次第に定着し、ふと気がつくとそれが人々の現実を見ていく通念となっていく様が描かれている。
愕然とした造反派紅衛兵世代の一部の者たちによる困難な闘いが始められていく。文革には「二つの文革」、すなわち「毛沢東の文革」と「人民の文革」があったのであり、前者をもって後者を否定するのは誤りだという主張である。そして「人民の文革」は一九六六年~六八年の二年間(ないし~六九年の三年間)だったのであり、「一〇年文革」というのは当局の「文革徹底否定」史論にもとづくものであり、誤りだというのである。
一九九〇年代初め、楊曦光がその種の主張をしたときそれは集中的な非難に遭ったという。それらが海外中国人社会から始まって、大陸でのインターネット論壇などで一定の共鳴者を見い出し、事態がやや改善されたのは九〇年代中頃だというからごく最近のことのわけである。
それでは彼らは「文革徹底否定」論と「一〇年文革」、「一〇年の大災禍」説をなぜ大きな誤魔化しと見なしたのか。

1.「文革徹底否定」論の動機
「文革徹底否定」の主張者たちは言うまでもなく、文革において「走資派」として批判と打撃の対象となった層であるから、勝利者となった彼らが文革を否定するのは当然といえば当然だろう。
しかしそれは社会主義と人々の解放の名において主張されている。となるとそれに対して文革はただ「徹底否定」されるべきものだったか、そして文革後の現実は社会主義と人々の解放の道であったかという意見が登場するのは避けられない。「文革をどう評価するかの問題は、単に歴史学の問題であるだけではなく、現実問題でもある」(劉国凱)からだ。
そして彼らは「文革徹底否定」論はきわめて手の込んだものだという。そこには中国共産党の統治の仕方での悪魔的な知恵が働いているというわけである。
まずそれは文革のなかにあった二つの要素、すなわち共産党の政治運動的要素と人民の解放運動的要素を区別しないまま一括りにして否定しているわけだが、この「四人組批判」としての文革批判の陰で実際に「徹底否定」されているのは「人民の文革」なのだというのが彼らの主張である。
また「一〇年文革」という、われわれにしてもごく当然のように考えてきた言い方は、文革の実際に合致していないのみならず、そこにはきわめて政治的な思惑が働いていたという。
その一つは、従来の「政治運動」と区別される文革の特質を中国共産党の統制から相対的に自立した大衆組織と運動の登場、それによる抑圧的官僚制への攻撃ととらえるとき、その頂点は一九六六年八月の「十六条」採択から、一九六八年(ないし六九年)ということになるのだが、「文革徹底否定」論はこの見方を「徹底的に」排除している。
さらにもう一つ、「一〇年文革」論は文革の「被害者」たる中国共産党官僚たちの一つのイデオロギー的な命名であるという批判である。
「文革に対して中国共産党官僚たちは彼ら自身の感受の仕方がある。彼らの見るところ、文革は彼らの尊厳と権勢とが厳重に傷つけられた大災禍でしかなかった。文革一〇年説を最初に提出した葉剣英らは元来は毛沢東の粛清の対象ではなかったのだが、文革の大波のなかで彼らの権力と尊厳も攻撃された。社会の下層からの彼らの尊厳への攻撃が彼らに根本的な傷を与えることはできなかったとすれば、毛沢東が支持し厚く信頼している林彪と四人組から与えられた彼らの権勢への攻撃は何度も彼らを危うく深淵にたたき込むところだった。毛沢東が崩御し、四人組が覆滅させられてはじめて彼らの地位、権勢は安定したのである。だから彼らの感じ方は今回の悪夢は彼らを一〇年に渡って苦しめたということになる」。(劉国凱「三年文革与両條綫索」)
しかもここには党官僚たちのメンタリティーが絡んでいたという。
「上述した直接の感受以外に、中国共産党の官僚たちが文革を一〇年と認定する上でさらに感情と現実上から二重の必要性があった。権勢並びなく、地位高貴な中国共産党の官僚たちは文革三年の間、倍増する恥辱を受け、自己批判を書き、批判に会い、誤りを認め、罪を認め、声は低く元気なく、畏れ入ってびくびくしていた、あの悪夢のような記憶は彼らの心にぬぐい難い陰影を残した。彼らの願いで最も望ましいのは彼らが羞恥してやまない光景を歴史から抹消することである。だがそれは結局不可能である。そこでやむを得ず次善を選んだのだ。少なくともあの現実を歴史上の独立した章節にしないことである。それをその後の七年間と混合し、大は小を呑み込み、溶かしてしまう、まことにいい案ではないか!」。
 王希哲もこう述べている。
「葉剣英は文革を『一〇年の大災禍』という一語で定義した。この『大災禍』の内容は完全に造反派の彼等への造反と『殴打•破壊•略奪』のことであり、彼らおよび彼らの子弟が人民に対して犯した累累たる犯罪、すなわち工作組の暴政、紅八月のテロル、一九六七年の殺戮、一九六八年の大虐殺はまったく『大災禍』などとは見なされていないのだ。
造反派は今に至っても『懺悔』が必要とされるのだが、あれら本物の両手が鮮血にまみれている保党派の殺人犯たちは早くに『第何々世代(の指導層)』として育てられ、すでに大挙して権力を継承しているのだ。こうして歴史は彼らによって書かれるのであり、造反派の案件は彼らによって判決が下される。彼らは勝利者であり、中国の今日の権勢者なのである」。(「関于翻案文革史論述提綱」)

2.新たな課題
さて、以上の「二つの文革」論の提起は「文革徹底否定」論の支配をくつがえし、文革を新たにとらえ返す上で大きな意義を持ったといえよう。だが「二つの文革」論の主張は主張者たちに新たな困難さを課すことになった。「毛沢東の文革」への批判を深化させるとき、それは「人民の文革」そのものの内実を問うものとなるからである。
それは「人民の文革」もただちに激烈な内部対立に陥ち込んだというにとどまらず、「毛沢東の文革」を「政敵粛清」、「権力闘争」などという一面的把握を越えて真に批判しようとしたとき立ち現れる問題である。
 「二つの文革」論者たちは「毛沢東の文革」は権力闘争だったが、「人民の文革」は社会的矛盾を受けた変革運動だったとする。\n 文革がそういう「二つの文革」的要素を持っていたのは確かだが、難しいのはそれら相互の関係をどうつかむかということである。双方がまったく同質ならそもそもこの課題は生じないわけであり、また双方がまったく異質ならその関係の評価に難しいことはない。
実際には「毛沢東の文革」もまた中国社会主義がはらんだ社会的矛盾に突き動かされていたのであり、だからこそ造反派もそれに鼓舞され、それは「人民の文革」を生み出す母胎、媒介たりえたのであった。双方の関係はまったく異質なものの外的関係(「相互利用」等の)ということではなかった。
劉国凱が「ブルジョア反動路線批判は〔……〕、文革造反派の輝かしい一頁だった」(「略評文革造反派」)というとき、それはその時期での毛沢東、中央文革の路線と切り離すことはできないものだからである。しかしそこには相互に反発し合う要素も濃厚にはらまれており、とりわけ「毛沢東の文革」には「人民の文革」的なものへの本能的な警戒と抑圧への衝動が当初からあった。
両者は「二年(ないし三年)文革」の一時期、すなわち文革期での毛沢東、中央文革の活動の内容的な頂点で一瞬融合したと見るべきなのだろう。しかし総体としての文革はそれがはらんでいた諸問題とそれが生み出した反動によって失敗し、「鄧小平の反文革」路線の制圧を許したのである。
 こう立てると問題はただちに「人民の文革」論にはね返ることになる。すなわちそれは「毛沢東の文革」が失敗した問題をどう認識し、どう克服しえたのか、と。
 そしてここでさらに困難な問題が生じる。それは「毛沢東の文革」の失敗は毛沢東と江青•張春橋グループの誤りの結果というだけでなく、革命そのものの問題性に由来するものでもあるという認識の登場である。「人民の文革」論がこの「告別革命」論にどう立ち向かうかが問われることになる。
 まずはその主張をも少し詳しく見ておこう。

二、「二つの文革」論の提起者たち

ところで「二つの文革」論は、文革にはその社会的根拠があったのだという主張、すなわち「社会的衝突」論と切り離せないものである。つまり「二つの文革」論は系譜的には造反派紅衛兵たちの「新思潮」まで遡る必要があるわけである。
 湖南省無聯の楊曦光は一九六七年一月闘争のあと、「二月逆流」のなかで逮捕され、出獄後、北京に闘争経験の交流に赴くなかで「新思潮」にふれている。以下の回想はすでに早くから造反派紅衛兵たちの中に毛沢東の文革路線とは異なる矛盾感覚と闘争のエネルギーが生まれていたことを示していて興味深い。
「私は一九六七年一月革命のなかで都市の市民が共産党当局に示した強烈な不満を思い返し、あらためて文革爆発の原因等を考え出した。〔……〕文革前、市民が示した共産党幹部への尊敬はすべて偽りであり、大多数の市民は共産党の専横にすでに以前から恨みを抱いているのを知った。私はこの種の社会矛盾は毛沢東の『プロレタリア独裁下の継続革命』や『二つの路線の闘争』理論をもってしては決して解釈できないことに気づいたので、マルクス主義の原著のなかに答えを探し、系統的な社会調査を通して社会の真実の状況を知り、文革中に都市の市民と共産党幹部との間の激烈な衝突をもたらした真の原因を明らかにしようと決心した」。(「『中国向何処去?』大字報始末」)
ここで取り上げる論者たちは湖南省無聯の楊曦光(改名して楊小凱)、広州「旗」派の劉国凱、精華大学付属中学出身の作家鄭義、「李一哲大字報」の王希哲の四人である。
なお、ここでは論者たちが直接「二つの文革」論、「文革二年(ないし三年)」説に言及した個所だけ切り取っており、それは彼らの論点の一部分でしかないのだが、その主張のニュアンスを知る一助にはなるだろう。

● 楊小凱――一「一九六六年八月から六八年は革命だった」
【一九四九年生まれ。湖南省無聯イデオローグ。「中国はどこへ行く?」執筆者。一九六九年から一〇年間に及ぶ刑期を終えて出獄した楊曦光は、幼名の楊小凱を復活。湖南大学で数学を学び、社会科学院研究員、武漢大学教員をへて、一九八三年アメリカに留学。プリンストン大学でエコノメトリックス(計量経済学)を専攻、その学問的業績は高く評価されているという。現在はオーストラリアのモナシュ大学の経済学部教授。その獄中記『牛鬼蛇神録』(牛津大学出版社、一九九四)は湖南省無聯の実態についての興味尽きない記述に満ちている。最近彼はカトリックに改宗したという】
楊曦光「中国はどこへ行く?」はここで取り上げた三人の論者たちにも決定的な影響を与えた文章であった。彼らが楊曦光との一致点、異同を確かめる場合でも、湖南省無聯の活動と楊曦光のこの文章をその原点としている。
楊曦光はそこで「コミューン革命」論を提起したわけだが、周恩来批判を含めてそれが根底的かつブリリアントであった分、その部分的な手直しは不可能であり、それがその後の「コミューン革命」論の放棄、さらには「革命」そのものの否定へと繋がったのかも知れない。しかし中国の民主化問題、中国共産党の「一〇年文革」論のごまかしについては今日なお批判の発言を続けている。
「文革は一貫した『十年文革』ではなく、おおよそ三段階に分けられる。第一段階は中国共産党が共産党組織を通じて政治を粛清した段階であり、おおよそ五•一六通知から一九六六年八月までである。この段階では非官製の大衆組織はすべて非合法あるいは反革命であり、あらゆる批判運動はみな共産党の厳密な統制下におかれていた」。(「再談『文革』」)
「文化大革命の第二段階はおおよそ一九六六年八月から一九六八年二月の間である」。
「この段階において、中国政治制度に重要な変化があった。その一つは『十六条』が学生は自発的に組織を作っていいと正式に規定したことである。この種の非官製組織は中共党史上ではすべて反革命であった。ある人は『紅衛兵、造反派のイデオロギーはすべて共産党の付属品であり、真の自由結社とは見なしがたい』という。しかし中共党史上、組織が非官製であり、イデオロギーが共産党に接近していた場合、この種の非官製的が蒙った迫害はより厳しいものだった。なぜならこの種の結社が一層危険と見なされたのは、いわゆるトロッキストだからである」。
「フランス大革命同様、自由な結社と革命は一たび発生するや、それは急進的方向に不断に分化し、軍事的強者が暴力をもって秩序を回復するまで突き進んでしまうことになる。こうした点からいえば、一九六六年八月から一九六八年に至る文化革命は政治学でいうところの革命であった。その特徴はそれまでの社会秩序は完全に崩壊し、それまでの政府と共産党は潰され、社会は半ば無政府状態となった。政治は軍隊にあり、各政治党派の間で弄ばれた。共産党の政治統制は半ば崩壊し(軍隊を除き)自由な思想は自ずから自由な結社から発展した」。

● 劉国凱――「文革には『人民の道筋』と『当局側の道筋』があった」
【一九四五年生まれ。文革期、親族に国民党上層部関係者がいたので「出身不好」の、広州「旗」派の活動家。文革渦中の一九七一年、今日なお高く評価される『文化革命簡析』を執筆。劉国凱がその執筆を考えたのは一九六八年の毛沢東による造反派大鎮圧の後だったという。「私はあの時、この政権は完全に人民を鎮圧する権力であり、あらゆる活動空間はすべて扼殺されたと思い、心の中で理論的にこの政権を徹底的に分析しようと考え、資料の収集を始め、一九七一年ひそかに『文化革命簡析』を執筆した」。一九八九年、アメリカに移住】
楊曦光「中国はどこへ行く?」の精神をまともに引継ぎ、自らの経験をふまえた文革研究のなかに最も生かしているのはこの劉国凱であるように思われる。文革についての該博な知識、人を引き込む筆致、論旨の明快さは劉国凱の各種の文章を、ここでのテーマについての必読のものとしている。
「文化大革命というこの政治運動はその独特な、これまでの各運動と区別される特徴を持っていた。この特徴の存在と消失がすなわちその始まりと終わりを明らかにする。四九年に大陸で権力を握って以降、中共は多くの政治運動を行なってきた。三反、五反、鎮反、粛反、反右、四清、一打三反、清除精神汚染、反自由化等々である。文化大革命とこれらの政治運動を比較したとき、その特徴が明らかで分かり易くなる」。(「三年文革与両條綫索」)
 「その特徴の一つは他の政治運動は矛先が下に向けられ、民衆を苦しめるものであった。反右派闘争では党員幹部が災難に遭ったが、その数は少なく、主流の現象ではなかった。四清では幹部が痛めつけられたとはいえそれは末端の幹部たちだった。だが文化大革命では矛先は下に向けられると共に上にも向けられ、それは省•市の指導的ないし中央の上層幹部を対象にした。
 特徴の第二は他の政治運動では、中共上層では認識を統一し、歩調を共にしていたが、文化大革命の間、中共の上層は深刻な分岐ないし分裂を起こしていた。
 特徴の第三は他の政治運動では中共の各級の党組織はきわめて効率よく回転し、運動の指導権をしっかりと握っていた。だが文革期間、中共の地方の各級および各単位の党組織は等しく麻痺ないし半麻痺状態となっていた。
 特徴の第四は文革期間、民衆は空前絶後、多くの組織を成立させている。これらの組織は自主的に集会、デモ、言論、出版等の民主的権利を行使した。中共政権は最後の関門を除いてこれらの組織を制御する力を失っていた。
 これら四つの特徴は六六年初夏から続々と出現し、最も典型的には六七年から六八年早春まで示された。そして六八年初夏から始まり、六九年の中共『第九回大会』に至って終わりを告げたのである」。
 「文化大革命の四つの特徴に注意し、またその基本的史実を全面的に了解するならば、文化大革命には二つの道筋、すなわち当局側の道筋と人民の道筋があったことを容易に見て取ることができる」。
 以上の把握の上に立って、劉国凱は王希哲、鄭義ら他の論者たちの見解への自分の意見を述べている。
「私の主要な観点は文革中には人民の道筋があったということである。この道筋は最初の三年間に出現し、その後は存在しなかった。李一哲は文革一〇年説を堅持している。彼らの一九七四年の闘争もまた文革のなかの『人民の闘争』だったとしている。しかしこれは適切ではない。なぜならそれは全国に影響を与えたとはいえ局部的な活動だったからである」。(亜衣「草根階層的社会民主主義者――訪『紐約華人譴責印尼虐華暴行連合総会』事務組召集人劉国凱」)
「私は『人民の文革』という言い方には賛同しない。この言い方は私の考えに接近しているかも知れないが、しかし『二つの文革』という提起の仕方は厳密ではない。私がいうところの『人民の道筋』と『当局側の道筋』は、ある時には分かれ、ある時には接近し、ある時には混合するのだが、仔細に見ると赤と黒に分けられるのである」。\n つまり劉国凱は鄭義のいう「人民の文革」と「毛沢東の文革」はそうはっきり分けられるものではなく、相互の関係はもっと複雑だという。だが、文革の頂点の時期を「新思潮」と同一視する見方、すなわち「二年(ないし三年)文革」期の毛沢東、中央文革と造反派の思想と活動における同質性という把握は拒否している。のちに見る粛喜東の「政治連盟」論を受け入れていないわけである。
 「中央文革メンバーがパリ•コミューンの原則を称揚したのは僅かに一九六七年初めの短い期間であり、まして中央文革の少壮グループ――王力、関鋒、戚本禹は文革中期、すでに粛清されたのである」。

● 鄭義――「文革には第一の文革(は毛沢東の文革)と第二の文革(人民の文革)があった」
【一九四七年生まれ。紅衛兵組織発祥の地、精華大学付属中学の「出身不好」の造反派紅衛兵。のちに作家。「二つの文革」論を提起した『歴史的一部分』、広西チワン自治区での武闘と「食人事件」を扱った『紅色記念碑』を書く。一九八九年の天安門事件後、難を避けて中国各地を流浪。一九九三年、妻北明と共に香港経由でアメリカに亡命】
 鄭義は「第二の文革は人民の血の海の中から胎動した」と述べている。「血の海」はいうまでもなく文革初期を支配した劉少奇、鄧小平らの「工作組」と、その後の高級幹部子弟の「老紅衛兵」たちによって生み出されたものであった。
 そして「工作組」と「老紅衛兵」の支配を打ち砕いたのは、毛沢東と中央文革による「ブルジョア反動路線」批判の提起であった。この時の「解放感」を鄭義は最大限の言葉で語っている。一方、鄭義の「毛沢東の文革」評価はほぼ全否定である。これらはどういう関係になっているのか? 鄭義は「二つの文革」に連携があったとすれば、それは「相互利用」の関係だったからだという。
「現在、中国内外の学術界では、毛沢東が文革を発動したのは人民を利用して政敵を粛清したものだという点についてはすでに共通認識となっている。毛沢東は崇高な革命的理想の解釈に酔っていたのだと考えることは明らかに浅薄であり無邪気にすぎよう。しかし文革の民主的要素、すなわち第二の文革についてはなお認識不足である。このことはきわめて重要である。文革において打撃を受けたあとまた官職に復活した人々はみな非常な悪意をもって第一の文革を攻撃しており、文革を朱元璋が功臣を殺した狂気のように描いている。以来、彼らは自覚的に無自覚的にか、文革のなかで民衆が彼らに対して示した正義に満ちた憤怒、彼らが作り出し、維持している制度に対する民主の追求を覆い隠し、自分は不正義な暴君による無辜の被害者のように扮している。彼らの口に上る『文革徹底否定』の『徹底』はおおむねはまさしくあの人民の文革を指しているのである」。(「両个文化大革命雏议」
 「八〇年代後期、月刊『作家』に発表した一つの文章のなかで私は明確に『二つの文革』についての分析を提起した。第一の文革は毛沢東の文革であり、これは大衆運動が共産党の権力構造を押し潰すのを利用して、政敵を打倒し奪われた権力を奪回する上層部の権力闘争であった。第二の文革は人民の文革であり、皇帝を利用して腐敗した役人を打倒するものであり、自覚的ではないにせよ民主的色彩を帯びた人民蜂起であった」。

● 王希哲――「人民の文革には潜在的な発生過程があった」
【一九四八年生まれ。「李一哲大字報」執筆者。文革終息後、北京の春(民主の壁)で活動し、一九八一年四月「反革命罪」で逮捕、懲役一四年。一九九五年に満期釈放。天安門事件七周年を控えた一九九六年五月三一日身柄拘束、六月一五日釈放。一九九六年一〇月、香港経由でアメリカに亡命、民主化運動に参加】\n 劉国凱は当初「李一哲大字報」に接したとき、「右派」的に感じたという。なにしろそこでは「コミューン革命」は語られず、「赤色ブルジョアジー」批判もなく、副題は「社会主義の民主と法制」だったのである。王希哲自身、自分は楊曦光と異なり、当時の文革に「右」として対したと述べている。しかし「李一哲大字報」には紅衛兵世代の明らかな政治思想の成熟があった。
 「『二つの文革』の観点は私が一九八〇年に正式に提出したものであり、一九七四年の民主と法制に関する文章〔「李一哲大字報」〕のなかにこの種の視点の萌芽はあった。私が出獄した後、最初に『開放』誌上で劉賓雁先生が鄭義が『二つの文革』理論を提起したと述べているのを見たとき私はきわめて怪訝に思った。昨日、鄭義先生に会ったとき尋ねたら、われわれは『期せずして同じ』だったのですねと言っていた。彼もまた楊曦光に啓発されて一九八八年にこの観点を提起したのだが、それは私に遅れること八年であった」。(亜衣「為了国家和民族的尊厳――訪中国民運的先駆者王希哲」
 「しかし私と楊曦光の同じでない点は、彼は官僚階級の体系を打ち砕くにはパリ•コミューン原則をさらに左に実行すべきであり、だから周恩来を打倒しなければならないというのである。われわれは官僚体制に反対し、現代西欧の民主と法制を実行しなければならず、『右』に向かい、民主を拡大する方向へ向かったのである」。
「人民の文革には潜在的な発生過程があった。一九六九年の中共『九回大会』の前では『人民の文革』と『毛沢東の文革』とを分けることはきわめて難しいことであった。『九回大会』以後次第に区分できるようになったのである。『九回大会』の後、中国共産党は民衆を全面的に圧迫しこうして『人民の文革』が始まったのであり、初めは純経済的な性質のものであった。当然このような言い方は実際的にはあまり正確ではない。というのは文革そのものはやはり共産党のものであり、人民はただこのスローガンを借りたのである。一つ正確にいえるのはこれが文革の中での人民自身の政治的反抗だったということである。問題は共産党がこれらすべてを文革だといい、一旦文革を否定するや人民自身の反抗をも道ずれに否定し去ったことである」。
 「上山下郷への反対を含め、復員•退役軍人の経済的利益をかち取る運動、労働運動等々は、もはや毛沢東の利益のためのものではなく、人民自身の利益から出発した政治運動だった。当然その表現の仕方は毛沢東を擁護するというものであり、共産党的なものだった。これは胎児が母親の懐で育つように、一つの過程なのであり、さもなければのちの七九年、八九年の民主化運動がその元、源がないままなされたということになる」。\n
三、「二つの文革」論の批判者たち

 これらの「二つの文革」論に対して当然多くの反発、批判が生まれたのだが、それはどのようなものだったか。中国共産党サイドのものは当然「文革徹底否定」論の立場、つまり文革をそもそも認めない立場からの批判であり、その論点に何か啓発される点があるわけではない。ここでは彼らがどのように周到に文革を否定しようとしているかの見本として見ておくことになる。
内容的に興味ある批判は「自由主義」や「新左派」からのものである。つまり共に中国共産党の抑圧政治を批判しつつも、「自由主義」は「二つの文革」論という形での文革救出を認めず、一方、「新左派」の「文革徹底否定」論批判は「二つの文革」論者の「毛沢東の文革」批判も認めないわけである。
ここでは四人の論者を取り上げてみよう。まず中共中央党校の金春明、つぎに社会科学院の徐友漁、そして在米「新左派」粛喜東、最後に在米中国人インターネット論壇の芦笛である。
粛喜東の論にはここでのテーマをめぐる叩き台として、われわれの思考を刺激する内容が含まれているので少し詳しく見ておこう。
芦笛についてはとくに選んだわけではなく、最近たまたまその主張を知って関心を持ったのだが、その論点はここでの論議をつぎのテーマである「告別革命」論へと繋ぐことを可能とするように思われ、ここで取り上げてみた。
なお、ここでも論者たちが直接「文革徹底否定」論や「二つの文革」論、「文革二年(ないし三年)」説を批判した個所だけ切り取っており、それは彼らの主張の一部分でしかないことをつけ加えておこう。

● 金春明――「共産党に反抗した造反派組織は一つたりともなかった」
【一九三二年生まれ。中国共産党中央党校マルクス主義研究所副所長、教授。文革初期の一九六六年、金春明は「学術権威」として批判され、六九年「五七幹校」に下放。「文革徹底否定」の代表的なイデオローグであり、『「文化大革命」論析』(上海人民出版社、一九八五)、『「文化大革命」史稿』(四川人民出版社、一九九五)、席宣との共著『「文化大革命」小史』(邦訳、中央公論社、一九九八)等で知られる】
金春明は「二つの文革」論について二つの点から批判している。(「訪金春明:『文革』起因十説」、「『両个文革説』与『文化大革命』的定性研究」)
第一は文革は「革命」でも何でもなく、あくまで中国共産党が一九四九年以降くり返してきた「政治運動」の特殊形態であること、第二に思想的、組織的、実践的にこの枠を越え出た造反派組織は一つたりとも存在しなかったのであり、「二つの文革」論者の主張は捏造である。
このように金春明は文革に積極的な要素など一切認めないのだが、しかし彼が依拠する「歴史決議」の規定については今日その「内乱」規定に補足すべき問題があるという。すなわちそこでの「反革命的内乱」規定にとどまるのではなく、文革を中国共産党の歴代の「政治運動」の一特殊形態としてとらえ返すべきだというのである。
「『文革』の結果からいえば〔『歴史決議』の〕この結論は正確である。ただし学術問題としてはやはり掘り下げることができよう。なぜなら『内乱』という言葉は中性詞であり、革命も内乱だし、反革命も内乱であって、内乱そのものは文革の特徴点を示すものではない。私個人は文革をこう定義している、すなわちそれは特定の歴史的条件のもとで発生した特殊で大規模な政治運動である」。\nそれでは「建国以来これまで毎回の政治運動」とはどのような性格のものだったのか。金春明はそれをつぎのように規定している。\n(1)「すべて権力を握っている共産党がアッピールを出し、発動したものであり、運動の方針と目標はすべて上で決めたものである。大衆は一般に党の呼びかけに応じ、組織的に運動に参加し、ある程度の自主性があるにせよ、一般に指導部が決めた範囲を越えることはできない」ものであること。
 (2)「共産党の行なう政治運動の特質は上から下への結合であり、広大な大衆を動員して参加させるもの」であること。
 (3)百万、千万の人々が参加する一つの政治運動はそれが同一のスローガン、語録を掲げていたとしても、それに参加した者たちの動機や要求、運動スタイルは千差万別だが、しかしそれらのことによって「運動の性質を決定したり、改変することはすべて不可能であった」こと。
 このような規定は基本的には文革にも当てはまるのだが、しかしそこには七点の「特殊性」があったという。
「①それは党の最高指導者が自ら発動したものである、②それはプロレタリア独裁下の継続革命理論を指導方針としていること、③それは特殊で神聖な使命、たとえば『反帝反修』をスローガンとしていたこと、④それは特殊な革命対象――『走資派』および『反動学術権威』を持っていたこと、⑤それは特殊な内容――党の政財文の大権を奪うこと、⑥それは特殊な方式――四大(大鳴、大放、大字報、大弁論)を用いたこと、⑦歴史に例のない規模となったこと、このような七点が造り出したのがすなわち内乱であった。多くの人が私の観点に賛成している」。
以上の金春明の主張は文革の「特殊性」の強調にも関わらず、つまるところ従来の「政治運動」に比べて文革の何が「特殊」なのかがはっきりしないものとなってしまっている。上げられた「七点」は文革の外見的な内容説明であっても、その「特殊性」の解明となってはいない。
 その上で金春明の全努力は「二つの文革」論者たちが強調する「大衆運動」の独自性なるものは存在しなかったのだということの論証に費やされている。
「だが私が個人的に接触し了解した状況からいえば、『文革』期間に公開で発表された各造反組織の成立宣言あるいは綱領のなかで『共産党の暴政に反抗する』ことを目的とした大衆組織を確実にまだ発見できていない」。
 「『文化大革命』中の大衆組織は各派が林立し、その数は数え切れない程多かったといえる。しかし毛主席を支持せず、文化大革命に不賛成で、共産党と社会主義制度を打ち倒すとする公開声明やそういう綱領、要求を探しても、一つとしてなかったと言えるだろう」。
 「彼らは『旧世界を粉々に粉砕する』、『真紅の新世界を建設する』と叫びもしたが、造反の対象は中国共産党、そして社会主義制度でもなく、いわゆる『党内走資派』と『反革命的修正主義路線』であった。造反の目的は政権の交代でもなく、国家権力の転覆と共産党の打倒でもなく、『プロレタリア独裁の強化』、『赤い祖国が永遠に変わらないよう守る』というものであった」。
 「以上のことが、『文化大革命』中の造反派が、論調がきわめて高く、規模が広大であり、口調が猛々しく、代償がいかに大きかったとしても、その到達目標は極めて限られたものでしかないことを決定づけた。『文化大革命』中の名が知れ渡り、きわめて活動的な『赫々たる左派組織』も、偉大な指導者が決めた範囲内の活動が許されるだけで、それを一歩も越えることはできなかったのである」。
 「共産党の指導を打ち倒し、社会主義制度を変えることを目標とした造反派組織が一つもなかったというのか? 中国の広大なること、当時の大衆組織の名目の雑多さ、形式の雑然さ、今に至るも十分緻密な調査と系統的な深い研究が欠けていることの故に、私は絶対的な結論を出そうとは思わない。だが私が個人的に接触し調査した状況からいえば、『文革』期間に公開で発表された各造反派組織の成立宣言あるいは綱領の中で『共産党の暴政に反抗する』ことを目標とした大衆組織は確実に見つからなかった。この基本的事実を無視して、『文革』時期に発生したある個別的事例を主観に任せて誇大化し、さらには個々の『史実』を捏造し、すでに共通認識となっている『文化大革命』の性質についての正しい結論を変えようとすることは、億万の『文革』を自ら経験した人々に受け入れられることは不可能であり、徒労なだけである」。
見られるように、金春明が「共産党を非難した造反派はいなかった」というとき、彼がその証拠として上げているのは「成立宣言あるいは綱領」についてであった。金春明はある集団の性格を知るには、それが掲げた「公開声明やそういう綱領、要求」だけでなく、その集団の運動形態や「綱領」という形では示されない社会的意識、そしてその構成要員の社会的基盤の分析が必要という初歩的認識も持ち合わせていなかったわけである。
それに当時中国共産党と異なる内容の「成立宣言あるいは綱領」を公然と掲げたときどういうことになったかを知らないとでもいうのだろうか。
金春明の結論はこうである。
「『文化大革命』はただ一つであり、それは中国共産党の最高指導者である毛沢東が自ら発動し指導し、億万の大衆が参加した、一〇年の長きにわたる特殊な大衆運動である。これが第一。
 『文化大革命』に参加した億万の大衆は、その動機は異なり行動は千差万別であったが、総体的に見れば毛沢東が策定した枠を超え出るものではなく、毛沢東の理論、方針以外のどんな独立した政治的綱領と異なる目標をも公開で明確に提出した人はいなかった。これが第二。
 広大な幹部と大衆のなかに『文化大革命』への不満、反抗と闘争が終始存在したことは争えない事実である。これらの反抗と闘争は『四人組』の粉砕、『文化大革命』の終息、その後の『文化大革命』の徹底否定にとって広汎かつ深い大衆的基礎と思想的基礎を築いた。これらの抗争は効果が顕著だったのであり、その功を否定できず、認めなければならない。だがこの抗争といわゆる『暴政』への反抗とは性格が別のものである。この反抗と闘争は本質からいえば、党内の正しい路線と誤った路線との闘争であり、マルクス主義を堅持して『左』傾の誤りに反対する闘争である。闘争の目的はまさに共産党の指導を堅持し、社会主義制度を強固にすることであった」。
 
● 徐友漁――「人民の覚醒は文革の結果だった」
【一九四七年生まれ。四川省造反派の指導的メンバーの一人であり、大武闘をくぐっている。現在は中国社科院哲学所研究员であり、「新左派」と論争中の「自由主義」の代表的イデオローグの一人。かっての造反派活動家百余人からの聞き取り含む『形形色色的造反――紅衛兵精神素質的形成及演変』(中文大学出版社、一九九九)等の著書がある】
かつての造反派世代のなかで毛沢東と文革の評価に最も厳しいのは徐友漁のように思われる。「悪」がたまたま「良い結果」も生み出したからといって「悪」を働くのか、「異端派」の文章にも遇羅克らごく少数を除いて採るべきものは何もない、と言ってのけ、唯一の「成果」は文革と毛沢東思想を対象化し、批判できる自由な諸個人を生み出したことだという。
「ある意味ではわれわれは『文革』に感謝すべきだろう。それはわれわれを幻想の中から目覚めさせたのだ。〔……〕『文革』は一切を変えたのであり、私は真の人間となった。だからといって私は『文革』を決して褒め称えたりしない。失敗と痛苦は人に教訓をあたえるが、だからといって失敗と痛苦そのものは称賛に値しないのだから」。(「総括和反思)
彼にとって「新左派」たちの文革ノスタルジーなど児戯に等しいものだったわけである。
「二つの文革」論を認めない徐友漁も、その前提となる「社会的衝突」論については高く評価しており、彼の紅衛兵運動分析もそれを基礎としている。
「私の見るところ社会的衝突論には以下の明らかな優位点がある。第一、それは当局の文革についての神話を打ち砕き、文革の真相を追求した。その神話とは文革中に文革派が作り出したものであれ、文革後に反文革派が生み出したものであれ、政治に服務するというイデオロギーであった。
第二、それは文革中の紅衛兵とその他の大衆の行為を説明することに力を注いでいる。大衆が異なる派閥に分裂した事実を正視し、運動に身を投じた大衆を各自の利益を持った主体と見なし、文革中の億万の人々の情熱、相互の争い、および人々の思想が文革の発展につれて変化し、そのことが文革発動者の予期しない結果をもたらしたこと、等々である。
第三、それは文革爆発前の社会状態と社会構造を示すことに力を注いだが、それは文革中ないし今日の中国の多くの重大な社会問題の理解にとって重要なことである。
 これらの理論は種々の長所があるにもかかわらず、しかしそれは文革の説明にとって依然として多くの誤りないし不正確さがあると私は考えている。そのことを以下簡単に分析してみよう」。(『様々な造反――紅衛兵精神素質の形成と変遷』中文大学出版社、一九九九)
 徐友漁は陳佩華、楊曦光という代表的な論者の見解を取り上げて反論している。彼らはこう主張していた。
 「六六年から六八年の文革は反官僚運動だった」。「文革が始まったばかりの頃、造反派は圧迫から解放されて自分のスローガンで立ち上がった。最初一年間は中央文革小組に操作された後、彼らはすぐさま発展して自己の政治計画を持った独立勢力となった」。(陳佩華)
 「文革中に積極的に造反した人は皆市民の中で共産党に不満を持っている人だった」。(楊曦光)
 徐友漁はここでいわれている造反派勢力の「独立」性、「反共産党」性に異議を唱えている。徐友漁にとってそれらのことは文革をへて、文革をくぐることによって、事後的に初めて可能となったのであり、文革を美化することなくそれをはっきり否定しなければならないのである。
 「王希哲の『人民の文革』の理解はこうであった。『毛沢東は国民経済体系の中に独立した利益を持たない多くの青年学生を騙し、煽動して造反に立ち上がらせ、「紅衛兵」ファッシスト運動を発動した。しかし運動の発展につれて、人民は毛沢東の追求する目標と中国人民の根本的利益は相容れないことを認識するに到り、ついに毛沢東の政策を否定しそれに反抗した』。だが厳格にいえば、王希哲の主張は社会的衝突論とは一致しないのであり、それはある意味では『一つの文革』論である。なぜなら人民の覚醒と抗争は毛沢東のあの文革への反応なのであって、それら二つは並存関係ではなく因果関係だったからである。私は王希哲の青年学生は独立した利益を持たないという見方には同意しない。また文革のなかで遇羅克、楊曦光などごく少数の先知先覚者がきわめて早くに人民の利益はどこにあり、官僚の利益は何なのかを見抜いていたことを認める。そうではあるがしかし私は『二つの文革』論の観点を無条件に受け入れようとは思わない。なぜなら文革に巻き込まれた大多数の大衆(とりわけ紅衛兵)についていえば、自分らの正当な利益を意識するに到ったのは騙され利用された後だったのであり、彼らが目覚め悟ったときすでに『人民の文革』に従事するどんな機会もなかったのである」。

● 粛喜東――「造反派と毛沢東、中央文革小組とは『政治連盟』の関係にあった」
【「社会学者(香港)」、「中国人留学生」、「在米中国人左派」等の断片的な経歴が出てくるが、詳細な経歴は分からず。一九六〇年代~七〇年代の世界的な運動の高揚と後退のなかに文革の運命を位置づけ、日本のベトナム反戦闘争、三里塚闘争にも言及しているところをみると、香港で育った若い世代なのだろうか。民族主義的毛沢東主義者のようだが、その論旨展開は現代的水準を示しており、示唆される諸点がある。】
 粛喜東は「二つの文革」論について人の意表をつく指摘をしている。それは「二つの文革」論は当局の「文革徹底否定」論と時を同じくして形成されたものであり、それへの妥協、譲歩であるというのである。
「『二つの文革』の観点は現在、文革に自ら参加した、とりわけ造反派左派の人たちの間で流行している。しかしこの観点が文革の清算、保守復旧の風潮の影響と圧力のもとで、造反経歴を持つ人が心理上当局の『徹底否定』の観点に譲歩、妥協した結果であった」。(「『両个文革』、或一个文革?」
 「しかしそれは主流の観点の影響を深く受けており、ある意味では主流の観点との妥協であった。実際上、主流の観点の形成過程は『二つの文革』論の形成過程であった」。
つまり「人民の文革」の抽出により文革を救出しようとしたそれは、「毛沢東の文革」の否定を代償にしており、その点で「文革徹底否定」論への追従になっているというのである。
 その上で粛喜東は「二つの文革」論の意義から出発する。

① 大衆造反運動の意義
「『二つの文革』論での、文革中の大衆運動が備えた民主を争い、迫害に抗する性質への評価はこの文章で基本的に正確だと認めている。この分野でなされた『二つの文革』論による一元化された『徹底否定』という主流の観点への妥当な批判と訂正は優れたものである。実際、きわめて遺憾なことに現存の歴史的著作であれ文学作品であれ、文革大衆運動のこの重大な内容にふれ、それについて語ることは極めて少ないのだ。この『二つの文革』論と『徹底否定』という当局の一元化された観点を比較したとき、エリート以外の大衆と大衆の政治に着目したことは肯定に値するものと見なすべきである」。
粛喜東も文革は「一〇年文革」ではなく、「本物の史上前例のない事件としての文革運動は一九六六年八月から一九六八年八月の二年間」と見るべきだという。
「その根本的理由は、政治行動の方式がただ六六年八月から六八年八月の時期に文革固有の性質と特徴点、すなわち社会主義制度下での大民主の実験の全面的展開が行なわれ、人民大衆が結社、集会、出版、言論と四大自由を十分に持ち、左翼急進的な革命イデオロギーが人民大衆の手中の武器となり、もはや空っぽの教条、官僚の手中の道具となることはなかったのである。六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」。
粛喜東が文革の起点を一九六六年八月としているのは、その月、「十六条」が公布されたのであり、世に「文革綱領」といわれる「五•一六通知」は文革固有の政治行動の特質にまだ合致していないとする見方からである。
「二つの文革」論者たちがその「二年(あるいは三年)文革」説を、その時期での大衆運動と組織の自立性にその根拠を置いているのに比べ、粛喜東の特徴はその時期での毛沢東、中央文革の指導方式、「政治運動の操作方式」の新しさに着目してことである。\n
② 毛沢東文革論と大衆造反運動の切断
以上の評価の上に立って、しかしここから「二つの文革」論への批判が始まっていく。
「だがそれは毛沢東の『造反有理』の思想と文革での大衆の造反運動を引き裂いてしまい、また中央での二つの司令部の闘争と社会のなかでの造反派と保皇派の闘争との間にはその脈絡がはっきりした連盟と対立の関係があることを認めようとしない」。
「『二つの文革』の観点から見るとき、中央の闘争と大衆運動の発展はただ時間的に重なっただけであって、イデオロギー上の一致はなく、ただ利用、被利用の関係があり、政治連盟的関係を認めない」。
 「『二つの文革』論は文革のその他の側面について、とりわけエリートの闘争およびエリートと大衆との関係の問題では主流の観点とその程度は異なっても一致している」。
その結果、「二つの文革」論は文革期の幾つかの顕著な現実を説明できないという。

③「二つの文革」論が説明できないもの
それは文革後期(原語「後文革時期」)をどう見るかに関連する問題である。
「『二つの文革』論の最も主要な根拠は、毛沢東の文革理論と文革期間に大衆のなかに自発的に生み出された官僚に造反する思想理念とは性質がまったく別だという認識である。多くの人々の思考パターンのなかでは毛沢東は『極左』思想を集めて大成した人であって、真の民主的思想を持ちえていないのである。他方、一時期、大衆の手中の強大な武器となった大民主、集会•結社•言論の自由等も『極左』の『社会主義新段階』といかなる必然的連繋も不可能だとされる。この二つの仮定を根拠に毛沢東は文革中の大衆運動を利用したのであり、その目的はただ上層グループ内の政敵を打倒するためであったと推論している。しかしこの種の推論は文革の経過および文革後期での一系列の事実の発展には符合していない」。
「『二つの文革』論が説明しようがないもう一つの歴史的事実は文革後期での毛沢東はそれによって文革を発動し、文革中に造反派を支持したあれらの理論を決して取り下げていないことである。この時期、毛沢東はさらに確信を深めて修正主義に反対しなければならないことを強調し、当時の中国が多くの分野で『解放前と変わらない』と認識しており、反官僚、反特権を強調している。毛沢東が文革後期に提唱した『反潮流』の精神は『造反有理』の再版であることは歴然としていた。
 仮に『権力闘争』的言い方で、単に『文革の成果を擁護』し、打倒された『政敵』の復活を防止するという角度から出発するなら、社会主義になお存在する『暗黒面』、『修正主義に変色する危険性』をくり返し強調する必要はなく、さらに『反潮流』である必要はないからである。唯一の合理的解釈は、文革中はもちろん文革後期でも、毛沢東は『継続革命、不断革命』の高度な理論次元で問題を考察していたのであり、政敵を打倒し、自分の名誉を維持するという低次元からではなかったということである」。

④「政治連盟」論
ここで注目すべき粛喜東の「政治連盟」論が登場する。
「六六年六月から八月のあいだ、〔……〕中央文革がすでに全国の学園に広がった反工作組の学生運動をくり返し支持したあと、造反した学生たちは精神的、理念的に中央文革を認め、支持したのである。そして各地の造反派の中央文革への賛同は今度は中央文革の地位を強化した。この連携は政治的取引、あるいは政治操作によって作られたのではなく、政治的観点の基本的一致の上に築かれたものであり、一種の典型的な政治連盟であった」。
しかしこの「政治連盟」は破綻する。
「文革後期(六七年八月意以後)、左派連盟に重大な亀裂が発生し、中央の急進派内部に分解が生じ、中央文革と地方の造反派との関係にも緊張が生まれた。そこには三つの要因があった。一つは大衆造反派内部に宗派主義的紛糾が発生したこと、もう一つは左派の小部分が理論上先行して発展する一方、幾つかの省での造反派の運動が深刻に停滞し、全国の運動が不均衡に発展して、各省の状況を相互に支持し合うことが不可能となったことだった。さらに最も重要だったのは、以上の二つのことの原因でもあったのだが、まだ強大な実力と資源を持った保守派官僚が左派陣営の効果的な瓦解、分裂と挑発工作を推し進めたことである。このことはあらゆる文革著作がふれないことなのだが」。

⑤ 相互作用論
ここで粛喜東は「政治連盟」の内的関連を分析している。
「最後に指摘すべきは、『二つの文革』論のなかで毛沢東と文革大衆運動とを切り裂こうとする企図は成功しないということである。毛沢東の反修防修、継続革命理論は抽象であり、広い観点で大衆造反運動を呼びかけるものであった。造反派大衆運動のなかに自生的に生まれた反血統論思想は具体的なものであり、それは微視的な観点から反修防修に生き生きした社会学的内容を与えたのである。毛沢東が六〇年代以来、反修防修と継続革命の問題において発展させてきた各種の特異な思想と言論は、大衆組織の非官製的な出版物を通して民間と社会に伝わった。それは当時、理想主義に満ち造反精神を持って運動に入った青年たちにとってきわめて大きな新鮮さと吸引力を持った。同時に造反派大衆のなかに自力で育った反血統論思想は具体的、微視的な次元で反修防修の巨視的な抽象的理論に生き生きした社会学的内容を与えたのである」。
ここで粛喜東は「二年(ないし三年)文革」期の毛沢東路線と造反派とは同質の「思想体系」にあったと述べている。
 「文革運動のなかで生み出された一種独特な左翼思想と闘争言語は、反修防修、継続革命理論と反血統論、『大衆が自分で自分を解放する』等の内容を結合したということができる。文革中の一系列の上から下への闘争、資本主義を引き入れるに熱心な党内官僚への闘争を含めて、これら官僚階層の子弟家族が形成する特権集団への闘争、当時の社会にあった新旧の不平等な関係に対する闘争がすべてこの統一的な闘争言語に統一された。われわれもまた『思想体系』という言い方を使うとすれば、毛沢東晩年の思想はその思索が切り拓いた理論(ブルジョア的権利の批判等)、さらに省無聯『中国はどこへ行く?』を代表とする民間左派理論(今日われわれがそれをどう評価するかはともあれ)を含めて、堅強な核を持った毛沢東晩年の思想体系、すなわち『継続革命』の思想体系が形成されたのである。六六年から六八年に到る大衆運動はすなわちこの思想体系の最初の具体的実践であった。『中国はどこへ行く?』のなかの思想と『五•一六通知』、『五•七指示』は同一の体系に属していることは否定しがたく、フルシチョフの秘密報告、あるいは〔……〕ゴルバチョフの思想体系とは天地の差があった」。

⑥ 毛沢東の「民主主義」論
「二つの文革」論者たちの毛沢東「大民主」論批判についても粛喜東は反論する。
 「一九六〇年代末以降の世界的規模での反体制的左翼運動の衰退以来、人々は習慣的に社会主義社会内部の反体制運動を『自由化』と関連づけている。〔……〕ソ連体制の批判の上で、現存する社会主義制度は徹底的な改善を必要としているという認識の上で、毛沢東と彼らの見方はある程度接近している。しかし社会主義制度がはらむ弊害の根源に対して毛沢東は彼らと異なる診断と処方を編み出している。〔……〕一言でいえば毛沢東は別の道を通って左翼的な方向から社会主義の改革、社会主義的民主の実行を試みたのである。まさしくこの意義において中国文革と六〇年代のおおよそ同時期のヨーロッパ新左翼運動とは図らずして一致したのである。……この『新左翼』と『旧左翼』の重大な差を無視してはじめて『毛沢東は骨化した社会主義を堅持している』との結論を出しうるのだ」。

⑦「二年(ないし三年)文革」以外の時期の見方
 さて、粛喜東は「二つの文革」論者たちと共に「社会的衝突」論、「二年(ないし三年)文革」説をもって「文革徹底否定」を批判するわけだが、「二つの文革」論は取っておらず、また「毛沢東の文革」批判も受け入れていない。つまり「一つの文革」の立場なのだ。そうすると粛喜東にとって「二年(ないし三年)文革」期以外の時期は何なのか? 文革なのか文革でないのか?
 「『二年文革』説の最も重要な根拠はやはりこの二年間のかつてなかった政治操作方式であった。毛沢東はこう述べていた。『過去われわれは農村での闘争、工場での闘争、文化界での闘争を行ない、社会主義教育運動を進めてきたが、しかし問題を解決できなかった。なぜなら、大衆を下から上へと立ち上がらせることによって、われわれの暗黒面を公然と、全面的に暴露する一つの形式、一つの方式を見つけ出すに至らなかったからである』。この種の形式と方式は文革のなかで探し出され、二年間のあいだ全面的に運用されるに至った」。\n「これと比べると六八年九月から始まった一系列の、後に続く運動と事件、すなわち階級隊列の純潔化、一打三反、精査五•一六、批陳〔陳伯達〕整風、批林〔林彪〕整風、批林批孔〔孔子〕、評法〔法家〕批儒〔儒家〕、批判ブルジョア的権利、評水滸伝、経済整頓、教育整頓から、反撃右傾翻案風、批鄧〔鄧小平〕に至るまで、それが上層の急進派あるいは実務派が起こしたものであれ、程度の違いはあってもすべて上から下へ、形は『左』だが実質は『右』の『大衆を運動させる』形式を回復させたのである。そして毛沢東が呼びかけた『造反有理』の新たな提唱――『反潮流』――は文革のなかでの大衆の自発的な造反運動に類似したものの形成を促進することはできなかった」。
 「六六年から七六年に至るこの時期は新中国の歴史の上で勿論その特殊性を持っていた。この文章と他の文章で筆者は六八年末から七六年末までの時期を『文革後期』と呼んでいる。この時期、文革前後に誕生した党内『極左』綱領は部分的に実践あるいは実験に付された。文芸革命、教育革命、衛生革命、五七道路、大寨•大慶、鞍鋼憲法等々である。同じくこの時期、整風、四つの現代化、整頓等、党内実務派の政策綱領の実施もあり、一九七五年の反撃右傾翻案風、階級隊列の純潔化、精査五•一六等の文革造反派を清算する運動もあった」。\n粛喜東によれば「ここでいう『文革後期』は文革の後期〔原語「文革之後的時期」〕という意味であり、一部の文革を『文革以前』〔原語「前文革」〕と『』〔原語「後文革〕とに分ける観点がいうところの「ポスト文革」ではない」という。つまり粛喜東は「六八年末から七六年末までの時期」も文革に含めていると見てよいのか?
しかしこの点は微妙であり、はっきりしない。それが中国語の多義性による解釈の幅なのか、あるいは当方の初歩的読解力の故なのか、それとも粛喜東自身がはっきりしていないのか、よく分からない。「二年(ないし三年)文革」以降は文革期なのかそうでないのか明言すればよいことであり、また「後文革時期」、「文革之後的時期」等の紛らわしい言葉を使うべきでないだろう。
いずれにせよ、それは文革を文革たらしめた「政治操作方式」はすでに失われている時期だという。
「六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」。\n
● 芦笛――「異端思想と毛沢東の政治的理想の思考パターンは同じである」
【在米民主化運動従事者。インターネット論壇著名人。詳しい経歴は分からず。ただ芦笛は遇羅克「出身論」についてこう述べている。「当時あの文章がわれわれ黒い犬の子の心中に引き起こした震動はまさに言葉で表現できないものだった。何の誇張もなく言って、あの文章は私の暗黒の心に開けられた一つの明るい窓であり、毛沢東思想の他に世の中にまだこのように生き生きした別の思惟方式があることを初めて知らされたのである」。「黒い犬の子」、すなわち「出身不好」の紅衛兵世代である。現在、民主化運動の一部の指導者と悶着を起こしているようである】\nだが今日、遇羅克の文章を読み返した芦笛はそれを「裏がえしの血統論」だと感じる。それまでは「出身好」が革命的とされていたのに、今度は「出身不好」が革命的、「出身好」はダメとされただけで思考のパターンは同じではないかというのである。
芦笛がこのように考えるに至るには献身的な造反派としての生き方から「真性の反革命」へと至る経過があったという。遇羅克、楊曦光、王希哲から最も大きな影響をうけたという芦笛はその後、これら「異端思想」こそ民衆にとって、「走資派」、さらには毛沢東以上に危険であって、もしその「パリ•コミューン式の」社会が実現したら悲惨極まることになったろうと考えるに至っている。
「文革一〇年での、見つけられた限りの毛沢東の一切の内部講話を私は仔細に読んでみて心底思ったのだが、毛沢東の内心深くにあった政治的理想はこれら『異端』の思索者たちが提起したものとまったくそっくりなものだったのである」。(「先知先覚者的悲劇――兼論『両个文革』」)
ところがこの思索者たちは毛沢東の二面性を理解しておらず、毛沢東の現実的側面に頭をぶつけて「毛沢東の文革」と異なるものとして「人民の文革、われらの文革」を言い出したのだが、実はその「人民の文革」は毛沢東の理想的側面がはらんでいたものだったのである。
「毛沢東と同様、彼らも民主を鼓吹した。だが不幸なことに彼らはこの重大な問題で毛沢東の教義を黙認した。すなわち民主は階級とイデオロギーを超越したものではなく、ただ人民にだけ与えられるのであり、『反動派』には与えないのである」。
「これらの『異端』思想家は毛沢東の心を深くつかんだが、しかし彼らにとって不幸なことに毛沢東は矛盾に満ちた人物であり、根深く『葉公龍を好む』気質を有していた。一面では彼は紛れもなく共産党の高級幹部のなかでただ独り比較的『抽象的な』思考を好み、明らかに理想主義的傾向と『ロマンチズム』気質を持った革命家だった。他方、彼はまた老謀深算〔細心に計画し深遠に見通すことのできる〕、無比の精妙さを持った政客、謀略家であった」。\n毛沢東はコミューンを語りながら、実際に上海が「上海コミューン」を名乗ったら怖くなって逃げ出した「葉公」だといえるが、他方、一つの政治思想が諸関係を通してどのような実践的帰結をもたらすかを測定できる卓越した、かつ謀略に富む政治家でもあったというのである。(なお、中国語の「謀略」は「謀に長けた」という意味でそこに「陰謀」的語感は希薄なようである)。
「不幸なことに、『異端』思想家たちは毛沢東の『二面性』を見抜いていず、毛沢東のユートピア的な断片的な言葉に酔い、インスピレーションを得、マルクス•レーニン主義の用語をもってあれらの言葉の断片から比較的整った思想をつむぎ出し、『中国はどこへ行く?』、『社会主義の民主と法制を論ず』を書き上げたのであった。想像に難くないことだが、これらの文章が現政権の存在を脅かしたが故にただちに当局によって厳しく弾圧されたのだが、毛沢東は当然にもこれら民間思想家たちの生死を気にかけることはなかった。冷酷にいえば『異端』思想家たちは毛沢東に騙された忠臣たちだったのである」。
「遺憾なことに、『われらの文革』は真に『人民の文革』だったかも知れず、社会的に圧迫され、差別された『出身不好』の者たち、『落ちこぼれ分子』たちが立ち上がり、『走資派』、党員•青年同盟員、積極分子と真に闘ったのかも知れないのだが、不幸だったのはこのように主張する人たちが二つの基本的事実を見落とすか粗略に扱ったことであった」。
「第一に、『われらの文革』が仕えていたのは依然として『われわれの思想を指導する理論的基礎はマルクス•レーニン主義である』ということだった。のみならず、その革命精神が徹底的であり、その政治理想が現実的な弾力性に欠ける故に、その実践は必然的に中国に劉少奇、鄧小平ら平凡な管理より、更に大きな、更に深刻な災難をもたらし、だから更に反動的なものとなったろう。〔……〕これら『人民の文革』は、毛沢東が『徹底的な革命精神を』を欠いていたがゆえに、いまだ全国に広められなかったのは、人民にとってまさにいかに大きな幸運だったことか」。\n「第二に、『われわれの文革』、あるいは真の『人民の文革』は、その人民の半分のものに過ぎず、少なくとも保守派という半分を含んでいないものだった。『人民の文革』が勝利した幾つかの地区では、それら半分の人民が受けた迫害は毛沢東の共産党が統治した以来の最高水準を越えていた。それと同時に伝統的な『階級の敵』の災難はまったく終わっておらず、『階級隊列の純潔化』、『一打三反』という民衆を踏みにじる運動のなかで再び残酷に蹂躙されたのである」。\n芦笛はどの地区のことを言っているのだろうか? それに「階級隊列の純潔化」、「一打三反」はそれこそ毛沢東による陰惨な造反派掃滅の運動だったのに。\nしかし「人民の文革」はその政治思想の質からすれば「イラン•シーア派の原理主義的イスラム革命的なもの」になるという芦笛の「異端思想」、「コミューン型革命」論批判の論理は強力であり、「二つの文革」論者たち、そしてわれわれもまたそれに答えなければならない性格のものではある。

四、引き出された問題点

さてこのように見てくるとき、そこからは検討を深めるべき多くのテーマが出てくる。しかしここではそれらに一定の結論を提起する準備がなく、問題の輪郭を若干整理しておくことにとどめよう。とりわけ7.「人民の文革」の総括、は重要かつ興味あるテーマとして詳しく扱われるべきものだが、今回はそのごく一端にふれることしかできない。

1.「毛沢東の文革」の評価の仕方
鄭義は「今日、中国内外の学術界では、毛沢東の発動した文革は人民を利用した政敵の粛清であったということはすでに共通認識となっている」と述べていた。
「共通認識」であるかどうかはさておき、「二つの文革」論者たちもまたほぼ「毛沢東の文革」の全否定に近い考えに達しているのは事実のようである。だがそういう認識に今日到達したにしても、それに至る変化過程の分析が重要である。造反派にしても当初は圧倒的な毛沢東の影響下にあり、その言葉から彼らの文革論を組み立てている。
しかしその後彼らは、自分らは毛沢東の「権力闘争」に利用されたのであり、その文革理論はそのための手段だったとして、そこに「人民の文革」の存在理由を立てている。ここには当初の幻想からすれば彼らの認識の深まりがあるわけだが、同時にそこには対象分析力の後退もある。というのはそこでは毛沢東文革論への共鳴とそこからの離脱の思想的経過が捨象されてしまっており、「毛沢東の文革」はその当初からダメだったというように一面化されているからである。
毛沢東が一九六七年以降、造反派の抑圧に向かい、ついにそれを鎮圧したのは事実である。問題はここに毛沢東の当初からの本質を見るのか、あるいは毛沢東の退化、堕落としておさえるかということである。
毛沢東は人民大衆の運動を利用したのだが、人民大衆もまた「毛沢東の文革」を利用して自分らの利害を貫こうとしたのだと鄭義はいう。
この整理はスッキリしているが、下層民衆の場合にそういう要素もあったとしても、造反派運動の過程はそういうことではなかったろう。その社会的要因はあったわけだが、直接には彼らは毛沢東の呼びかけのもとに立ち上がったのであり、毛沢東と中央文革が劉少奇、鄧小平の「工作組」、高級幹部子弟たちの「血統論」を厳しく批判して造反派を擁護したとき、一瞬、相互の利害は一致し、その関係を粛喜東が「政治連盟」的な性格を帯びたというのは荒唐無稽なことではない。
ただ毛沢東のこれら「四大」(「大鳴〔大いに意見を出す〕•大放〔大いに討論する〕•大字報〔大字報を貼る〕•大弁論〔大弁論をする〕」)は毛沢東の政治路線にもとづき「走資派」を批判するかぎりで容認されたものであり、真の意味での「大民主」でなかったというのが「二つの文革」論者、そしてその批判者である徐友漁らの主張である。
このことは事実であり、「四大」は粛喜東ら「新左派」が評価するほど解放的なものではなかった。これをどう見るのか。
たしかに毛沢東の造反派に対する態度をただ「利用」と見ない場合でも、その「社会主義」観、「民主主義」観はマルクス主義的、あるいはレーニン主義的ですらないスターリン主義的な性格を持っており、「新思潮」派のコンミューン路線とは異なるものである。さらには一九六八年以降の過酷な造反派弾圧の記憶は、「毛沢東の文革」をそれもまた一つの変革運動だったと見なすことはできないとする見方を当然生み出す。\nだがそれをもって「毛沢東の文革」を「政敵粛清」を専らとしたものと見なすことは、事実の経過として、また総括の仕方、批判の仕方として誤りを含んでしまうことにならないか。

2.「政治連盟」か「相互利用」か
「二年(ないし三年)文革」の時期、造反派と毛沢東、中央文革とは一種の「政治連盟」の関係にあったと指摘したのは粛喜東であった。考えてみればこの指摘は文革総括にとってきわめて重要な問題領域である。というのは文革終息後、造反派は「三種人」として貶められ、摘発の対象となり、中央文革に至っては「怪物」(葉永烈)であり、何の積極性もないものとして、真剣な総括の対象となっていないからである。そしてそれらの見方は「文革徹底否定」論の不可欠の属性だった。
だが「二つの文革」論者にとって中央文革は一九六六年八月以降の「革命」の時期の記憶と結びついていた。今日、「毛沢東の文革」には厳しい彼らだが、造反派の運動と中央文革の活動とがある時期重なり、連携したことを認めている。そして中央文革の盛衰は文革のそれと結びついていたのである。
楊小凱
「ある人は文革のなかで造反派は人に利用されたのだという。しかし政治は従来も相互利用なのであり、毛沢東は造反派を利用し、鄧小平に言わせれば造反派のなかの『悪人』は毛沢東を利用したのである。私は『中国の春』に連載した回想録〔のちの『牛鬼蛇神録』〕のなかで実際の人物と出来事によって説明したが、当時たしかに頭の優れた右派が自覚的に造反派を利用していた。彼らは現在自分が頭がいいと思っている一部の人々の比ではなく、彼らはずっと造反派を利用して共産党に反対した。彼らが失敗したのは覚悟がなかったからではなく、毛沢東が造反派を支持して実権派に反対し、造反派が自分の利益から出発して毛沢東と手を組んで劉少奇、鄧小平を代表とする共産党の打倒を願ったからであった」。(「再談『文革』」)
劉国凱
「これら二つの筋道はそれぞれ独立した内容を持つと共に相互に交錯する要素もあった。
六七年早春の鎮圧反革命〔「二月逆流」〕、六八年の夏季大鎮圧、これらは当局側の道筋そのものであった。『反経済主義、『文革新思潮』、これは人民の道筋独自のものだった。『ブルジョア反動路線批判』、『一月革命』、六七年暮春の『名誉回復』〔「二月逆流」による弾圧からの〕等は二つの道筋が交叉した産物だった。文化大革命の四つの特徴はその外在的表現であり、二つの道筋はその内容だった」。(「三年文革与両條綫索」)
王希哲
「人民の文革には潜在的な発生過程があった。一九六九年の中共『九回大会』の前では『人民の文革』と『毛沢東の文革』とを分けることはきわめて難しいことであった」。(「訪中国民運の先駆者王希哲」)
鄭義
「軍隊の上層部は一方では中南海で毛沢東と争い〔「二月逆流」〕、他方で全国的規模での血なまぐさい造反派鎮圧を開始し、四川省だけで数万人の多くが逮捕されている。この生死にかかわる重大な時期、毛沢東と民衆は困難を共に切り抜け、運命を共にする関係を客観的に取り結んでいた」。(「両个文化大革命雏议」)
このように彼らは「相互利用」論の鄭義を含めて「人民の文革」と「毛沢東の文革」との関係をただ相互に外的なものの「相互利用」であったとは見なしていない。だがそれではその関係は何だったのかという問題をほり下げることはしていない。「毛沢東の文革」の文革を「政敵粛清」と見るかぎり、双方を関連づけられないのである。
だから決して解放的なものではなかった「毛沢東の文革」を「人民の文革」に関連づけるためには、双方が同質であったということ以外の条件を見つけ出し、設定することが必要となる。
 われわれの考えでは「毛沢東の文革」もまたその全過程が均質なわけではなく、対抗勢力との関係、文革派の主体的条件の変化、等によって、一つの頂点に達したり、沈滞したり、混迷したりという帰趨をたどると見ることによってそれは可能となるのではないのか。運動の質的変化という概念を導入するということである。
「二年(ないし三年)文革」期、その運動は一つの頂点に登りつめ、そこで「人民の文革」的要素と交叉し、交錯したと見ることもできよう。劉国凱のいう「ブルジョア反動路線批判は〔……〕、文革造反派の輝かしい一頁だった」の時期である。自分と同質でないから「悪」だとすることは、異質なものとの協同と対立が政治の世界であることを見失っているだけであろう。
しかし「上海一月革命」をへて、とりわけ一九六七年二月の「二月逆流」以降、それはまた次第に乖離していく。

3.「走資派」論
 文革をどう見るかの重要な判断指標の一つに「走資派」論がある。「文革徹底否定」論は当然そんなものは存在しなかったという。
毛沢東は「官僚主義者階級」、「官僚層」等の言い方をへて、最終的には「走資派」という表現を選んでいる。
文革綱領「十六条」が「今回の運動の主要な対象は、資本主義の道を歩む党内の実権派である」と謳い上げ、一九六七年五月の『紅旗』、『人民日報』の共同社説が「社会主義社会において、とくに生産手段所有制にたいする社会主義的改造が基本的に完成されたのちに、階級と階級闘争がなお存在するかどうか。〔……〕プロレタリア階級独裁の条件のもとでも革命を行なう必要があるかどうか。誰に対して革命を行なうのか。どのように革命を行なう」についての重要な寄与であると称賛したこの「走資派」規定には、しかしある後退がある。
というのは当初「官僚主義者階級」という表現で、社会主義社会での官僚制というトロッキー、ジラス以来の難題に取り組んだかに見えて、すぐさま再び「ブルジョアジーの代表者」という安易な、あるいはスターリン主義的な規定に逆戻りしたからである。
造反派はその「社会的衝突」論からいっても官僚主義の問題には敏感であり、彼らの劉少奇批判もそこにあった。楊曦光の周恩来=「赤色ブルジョアジーの代表者」論がそれであり、彼らはその打倒を主張した。
だが毛沢東による造反派弾圧や、「上山下郷」先で「走資派」に接したりするなかで、彼らの「走資派」認識は次第に変化する。楊曦光も自分の周恩来評価がその後何度かブレたことを認めている。そして「李一哲グループ」はもはや「「赤色ブルジョアジー」論や周恩来打倒を主張はしなかった。
王希哲は自分が次第に劉少奇、鄧小平ら「走資派」を「ブルジョアジーの代表」としてではなく、中国社会主義の民主化にとって、毛沢東勢力と比べて「よりまし」な政治勢力と考えるに至ったと述べている。それは「走資派」にも十分責任ある中国社会主義の抑圧性の容認ではなく、それを実際にどう変えるか考えたとき、毛沢東の道はそれに繋がっていないと考えたからであり、すでに「中国コミューン」は掲げられず、「社会主義の民主と法制」が主張されている。
「李一哲グループ」のメンバーであった龔小夏は今日、毛沢東のいう「走資派」とは異論派、自由主義的指導者であったという。
「毛沢東は従来トロッキーやジラスのようにあれら共産党内の官僚集団を人民を搾取、圧迫する新階級と見なしてはいなかった。彼の『走資派』あるいは『党内ブルジョアジー』に関する指摘は、まず自由化傾向あるいはその嫌疑をかけられた共産党の指導的幹部を標的にしており、そこには彼の政敵および党内で彼に不満を抱く人々が含まれていた」。(「文革及毛沢東的偽激進主義意識形態」)
今日、「新左派」も「走資派」論について自らの見方を提出している。
「本来、毛沢東の文革の対象は『党内走資派』であった。しかし、『党内走資派』、『党内ブルジョア階級』の類の言い方は正統マルクス•レーニン主義の『言語構造』にその合法的位置がなかった。そこで『党内走資派』は往々やむを得ず社会上のブルジョア階級、小ブルジョアジーの『党内の代理人』と言いならされてきた。すると真の文革対象――党内官僚集団はしばしば『地、富、反、壊、右』と知識分子に打撃を与えるやり方に闘争の大方向を転移することになる。王紹光の研究によれば、文革最初の五〇日のとき、各級の指導者は往々にして文革を『第二の反右派闘争』として行なっている。湖北省の省長張体学の一つの話は湖北省の秘密にふれている。『われわれすでに三家村を放り出したが、再び何人かを自発的に放り出せば、省委員会に問題はなくなる』。こうして見ると、『旧言語構造』が文革の誤まった指導の一端だったのである」。(崔之元「毛沢東文革理論的得失与『現代性』的再建」)
「文革中の『ブルジョア階級』という言葉は三つの意味で使われた。第一は解放前のブルジョア階級の残余であり、第二にそれは人の政治的態度、行為、あるいは『階級的立場』を指すこともできた。第三に最も厄介でもあるのだが、それは党内官僚集団を指すことも可能だった。第三の意味での『ブルジョア階級』こそ毛沢東の真の文革対象だった。しかし毛沢東はいまだ正統マルクス•レーニン主義の『言語構造』を徹底的に切り離していない結果、各派の勢力に自分らの利益によって『走資派』という言葉の意味を操作する十分な余地を残し、最後には各派の闘争の結果が彼の発動した文革の本意に反することになったのである」。
「毛沢東が正統マルクス•レーニン主義をいまだ徹底的に乗り越えていないことを示すもう一つのことは、彼の文革理論が過分に『ブルジョア的権利』の概念に依拠し、それを『党内ブルジョア階級』の社会経済的基礎と見なしていたことである。〔……〕しかし単に『ブルジョア的権利』の角度から『党内走資派』を見るのはきわめて狭隘である。この見方はただ収入、分配上の差別に注意するだけであり、根本的問題、すなわち『党内走資派』あるいは官僚集団の生産過程と生産手段への支配に注意していないのである。さらに大事なことはただ分配上から『ブルジョア的権利』に着目する理論は『後ろを見る』理論であり、それは経済制度の建設的な創造を計画する上で文革を大きく妨げた。その結果、『打ち破るを掲げて、建設がなかった』という結果になったのである」。
なかなか興味ある文革総括の一視点である。文革が「経済制度上での大民主」を創出できなかったというのは毛沢東文革理論の核心、文革総括の核心にふれる問題であるからだ。
 その上でよく分からないのだが、「走資派」論の曖昧さによって「『地、富、反、壊、右』と知識分子に打撃を与える」やり方を許したということによって、崔之元は本来の文革対象である「党内官僚集団」との闘いはどうあるべきだったといっているのだろうか?それは「敵」ではなく、本来「人民内部の矛盾」として対応すべきことだったというのだろうか? 
この問題に関連して粛喜東はこう述べていた。
「「文革の意義をさらに全面的に総括するに当たって、われわれは『人民内部の矛盾を正確に処理する』という範例に立ち戻り、文革を人民内部の矛盾を処理する方式を見つけ出す大胆な試みと理解しよう。……文革を人民内部の大民主を行なう大胆な試みと見るか、あるいは人民大衆が『官僚主義者階級』を打ち倒す政治大革命と見るかがキーポイントなのである」。(「一九六六年的五十天:記憶与遺忘的政治」)
つまり文革での「官僚集団」との闘争は「人民内部の矛盾」として処理すべきことだったと言っているようにも思われるのだが、しかしここにはかなり厄介な問題がある。毛沢東の「走資派」批判は異論派としての劉少奇、鄧小平への誤った批判だったのか、それとも彼らは打倒されるべき抑圧的官僚層だったのかという問題は今日なお明快な回答はなされているわけではないからである。
ところで龔小夏は崔之元の主張についてそんなことではないのだという。
「文革中、大量の決して『走資派』ではない普通の人民が残酷な政治的迫害を蒙ったのは、崔之元が〔いうようなことではなく〕、毛沢東は根本的にいかなる独立した政治思想と政治批判にも存在する権利を与えず、多年わたる政治実践においていわゆる「階級の敵」――とりわけ思想上の異論派――に対して不断に迫害を加えてきたのである。まさにこの種の政治的迫害をスターリン主義的政権下で合法化することによって、はじめて毛沢東は政治的対抗者を『ブルジョア階級』の範疇に投げ入れ、以来それによって彼らに迫害を加えたのである」。
「走資派」といわれた層が龔小夏がいうように異論派、自由主義的指導者だったとすれば、それを「敵」として批判し、打倒した文革は最悪のものとなる。そうではなく新たな抑圧的官僚層だったとすれば、それを「敵」として打倒したのは必ずしも間違いではないということになる。
これに関連して興味あるのは、「ブルジョアジーの代表者」と規定された劉少奇が、奇妙なことに党員としての倫理性を問われて弾劾され、自己批判を要求されたことである。彼は文革中三度にわたって「自己批判書」を書かされている。
ここには異論派と「敵」とを概念的に区別できない中国共産党の理論的欠陥が露呈しているのだが、同時にそこには異論派とも官僚層とも截然とは分けられない「社会主義的官僚層」の特質把握の困難さも示されていた。
劉少奇、鄧小平ら「走資派」とはそういう層だったわけであり、単なる「思想闘争」としての批判では、文革前に毛沢東が、北京は「針も通さず、水も通さぬ独立王国」だと愚痴ったように、封じ込められ、無力化されてしまう可能性があるし、また文革初期の「工作組」の対応が典型的に示したように、あらゆる内部的批判の動きに対しては党組織は強力な抑圧機関として登場するのであり、批判は大衆運動の動員をもってしなければ有効性を持ちえない。
だから毛沢東の「走資派」論、造反派の「赤色ブルジョアジー」論や大衆運動をもってする批判の展開がただ誤りだったかといえば、そこでは「社会主義的官僚制」の問題が感受されていたわけである。
しかしそれらの官僚制批判が有効性を持つには、それが「走資派」の社会的基盤を解体しうる「社会革命」的要素を持っていなければならなかったのだが、江青•張春橋グループの「新生事物」はそういうものたりえていない。理論次元では崔之元がいうように、その「ブルジョア的権利の制限」論(毛沢東、張春橋)ではそこをほり下げることはできなかった。
そして中国共産党と毛沢東に当初から根深くある異論を異論として見るのではなく、すぐさま旧支配層の残滓、反共勢力と見る傾向が全面化している。これらのことは文革後期、「走資派」層の道義性を回復させる要因となっている。

4.毛沢東の「大民主」について
「新左派」崔之元、粛喜東らが毛沢東の「大民主」を「パリ•コミューン型原則」として高く評価するのに対して、「自由主義」の徐友漁ら、そして龔小夏は、それは毛沢東の路線への支持を大前提にしたものであり、真に自主的なものの承認ではなかったことを強調していた。
毛沢東の「生き生きした政治的局面」という有名な言葉も、決して異なる見解の対立と共同として自由な政治空間を意味しなかったように、それらの指摘は当たっている。王力によれば毛沢東は端的に「大民主はプロレタリア独裁を前提とする」と述べたという。そして中国共産党の「プロレタリア独裁」がいかなるものであったかを考えるとき、「新左派」たちの「大民主」賛歌はそのことの総括の上になされるべきであろう。
ただ注意すべきことは毛沢東の「大民主」はただ「民主主義の欠落」でなく、レーニン「プロレタリア民主主義」論にもとづく主張だったということである。今日、「民主主義の軽視」を非難されるレーニンだが、それはレーニンが反民主主義的思想の持ち主だったからではなく、その民主主義論は将来社会における「国家の死滅」、「政治の死滅」、従って「民主主義の死滅」という壮大な展望の中に位置づけられていたのである。そしてそこにこそ異なる意見の撲滅をはじめとする「民主主義の軽視」ないし否定の根拠がすえつけられていたのであり、それはつぎのような論理構造を備えていた。
「レーニンがここで言おうとしているのはつぎのようなころであろう。
そもそも『平等な権利』や『多数者への少数者の服従』、『少数者の保護』等の『民主主義』の根底にあるのは『共同生活の根本規則』のことなのだが、それが『民主主義』という制度形態をとるのは階級矛盾が存在しているからであり、『民主主義』というのは『共同生活の根本規則』の疎外形態なのだ。もちろんわれわれは『民主主義』を軽視しないし、汲みつくしていかなくてはならない。だが『民主主義』の実現が目的ではなく、階級の消滅する共産主義社会では『国家形態としての民主主義』は『死滅』し、『共同生活の根本規則』が社会を律することになるだろう。
ここでさきの引用個所の一つをふりかえってみよう。
『われわれは多数者に少数者が服従するという原則が守られない社会秩序の到来を期待しているのではない。しかし、われわれは社会主義をめざしながらも、社会主義は共産主義へと成長転化するということ、またそれにともなって人間にたいする暴力一般の、ある人間の他の人間にたいする服従の、一般住民の他の一般住民にたいする服従の必要はすべて消滅することを確信している。なぜなら、人間は暴力なしに、服従なしに社会生活の基礎的諸条件をまもる習慣がつくだろうからである』。
だがここにはある理論的飛躍ないし欠落があるのではないだろうか? そしてこの間隙から将来における『民主主義』の死滅の名による現在的な『民主主義』の軽視がしのび込むことになる」。(倉田洋『非抑圧的政治の再生へ』新世出版同人、一九九一)
スターリンはこの論理を援用して、「国家の死滅」のための「国家権力の最大限の強化」を主張した。
毛沢東の「民主主義は手段」という主張も同じ文脈でなされているものである。だからレーニン、そして毛沢東の「民主主義」論を真に批判するとしたら、その「プロレタリア民主主義」論、さらにはこれまでの共産主義論、その将来社会論そのものの点検が必要なのである。「政治の死滅」論的「国家の死滅」論を心情的、無批判的に保持したまま、「民主主義の軽視」を非難してもはじまらないのである。

5.「二年(ないし三年)文革」以外の時期は何だったのか
 一九六八年ないし六九年をもって文革は終わっているとしたとき、それではそれ以降七六年までの時期は何だったのか。そこでは文革前の中国共産党の統治の復活が行なわれたのか、あるいはその共産党による旧来の「政治運動」が展開された時期なのか。
 だが「二つの文革」論はこの問題について曖昧であり、そこにはその論としての未熟さがあるように思われる。
なぜこの問題をテーマとして成立するのか? 「二年(ないし三年)文革」期以降も「走資派」権力が復活したわけではなく、粛喜東がふれたように一連の運動が続いている。それはもはや「六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」としてもである。\nとりわけ毛沢東が文革本来の課題としていた「闘•批•改」(「闘争•批判•改革」)段階での「教育革命」をはじめとする中国社会各領域での「改革」の試みが始まったのは一九六九年以降である。
江青•張春橋グループによって「社会主義的新生事物」して大宣伝されたそれは、真に大衆的な創造物というより、「新興勢力」と表現された彼らの党派系列の者たちがヘゲモニーを握れば「革命的」というようなもので、のちに鄧小平の「整頓」によって鋤き返されてしまうような底の浅いものでしかなかったが、「二つの文革」論者たちが総括問題としてもほとんど関心を示していないのはやはり彼らの弱点だろう。
「新左派」は少なくとも「鞍鋼憲法」の再評価を語り、「経済制度上の民主的制度」の未達成が文革失敗の一つの要因となったとすることによって、彼らなりの文革「闘•批•改」と「新生事物」の総括を深めようとしているのである。
しかし以上のようなことはさておいても、造反派世代が毛沢東路線の対象化、相対化、そしてその圏域からの自立の歩みを始めるのは、彼らにとって重要な世代経験となった「上山下郷」、林彪事件(「五七一工程」文書での文革批判の衝撃を含む)などを含めて、「二年(ないし三年)文革」のあと、すなわち彼らが文革から除外した時期においてなのである。
この時期を文革本来の特質が失われた平凡な時期として考察の対象から除外するのはやはり貴重な苦難の経験の浪費だろう。
一九七六年一〇月、江青•張春橋グループの打倒とその後の全国的な文革派勢力の掃滅が行なわれ、さらに徹底した「三種人」の掃討がなされたということは、「二年(ないし三年)文革」が消滅して以降も文革あるいは何らかの変革が続いていたことを意味する。それは造反派内「極左派」や「新思潮」によるコミューン革命路線ではなかったが、「走資派」の復活、旧来の共産党統治への逆戻りとは明らかに異なるものであった。
「二つの文革」論はコミューン革命路線以外の「革命」路線を対象化する力量を、当時の渦中ではともあれ、現在の総括論議においても持ち合わせていなかったようであり、だから毛沢東と江青•張春橋グループによる「闘•批•改」と「新生事物」、「批林批孔」、「批鄧反撃右傾翻案風」運動等にはほとんど関心を示していない。
また意味は異なるが、歴史に同じような現象は起こっており、たとえば旧社会に対するスターリン時代の「革命性」、さらにはナチスの「革命性」というものはあったのである。(アレクサンドル•ジュノビエフ『余計者の告白 上•下』河出書房新社、一九九二、ヘルマン•ラウシュニング『ニヒリズムの革命』筑摩書房、一九七二、等を参照)
 
6.思想の継承での媒介性
 ここでの問題は毛沢東文革理論から造反派が相対的に自立していく過程についてである。なぜこのことが問題となるのか。それは「新左派」たちの毛沢東理論の見直し、「文革再評価」――それは「改革開放」のもとでの貧富の差などを基礎にしつつも、多分に西欧で摂取した新理論の応用、グローバリズムのもとで触発された民族主義、等を心情的な背景としているのだが――を文革の現実を知らない者たちの幼稚な論と批判しつつ、かっての造反派世代が軒並み、全否定に近い毛沢東批判を行なっていることに関連している。
彼らの世代が「二年(ないし三年)文革」期、毛沢東と中央文革の大きな影響のもとで運動に関わり、毛沢東文革理論を読み込み、読み替えるなかから「新思潮」への歩みを始めたにもかかわらずである。
そこには一九六八年以降の毛沢東による造反派弾圧がいかにも過酷だったことからくる幻滅がまずあった。そして運動の沈下したこの時期、彼等の間で「地下読書運動」が盛んとなり、そこでマルクスの原典をはじめとして毛沢東理論以外の世界の左翼思想を大量に摂取されている。それは毛沢東思想の対象化、相対化の始まりを意味していた。
宋永毅によれば、文革後期、青年世代のかなりの層に「異端思潮」の大衆的基礎が作られていたが、「毛沢東思想」から「異端思潮」へのこの転化を準備した一つはこの「地下読書運動」だったという。(「文化大革命和他的異端思潮」田園書屋、一九九七)
彼らはこうして文革、さらには中国革命そのものを新たな目で見直し始めている。王希哲の、毛沢東を「農民革命」の指導者として見れば傑出した指導者だったが、プロレタリアートの党、共産党の指導者として見るのなら、「毛沢東にこの領域での貢献はあったか? ない、一点といえなかった!」という言葉はその代表的な一つであった。
「ウラジミール•チトーがこの世を去るとき、彼はユーゴスラヴィア人民に繁栄の自治社会主義と労働者民主主義を残したが、毛沢東がこの世を去るとき、彼が中国人民に残したのは経済的崩壊と警察のテロルだった」。(「毛沢東与文化大革命」)
これらのことがほぼ全否定に近い毛沢東評価の底にあったのだろう。こういう思想は滅び去るべきだというのが、彼らの実感であり、それはわれわれにとっても分からぬことではない、しかしそのことと彼らの「毛沢東の文革」、さらには毛沢東思想は当初からダメだったという把握が正しいかどうかは別である。
この問題を考えるとき王希哲が「自分は毛沢東をその最高の可能性で理解しようとしていた」と述べていたことが印象的である。そして彼は「人民の文革には潜在的な発生過程があった」、「これは胎児が母親の懐で育つように、一つの過程なのであり」とも言っている。
つまりそういうことなのである。新たな思想がまったく自力で、純粋培養されるということはありえず、それは何らかの形で優れた先行思想を引き継いでいる。毛沢東のそれを読み込み、読み替えるなかから造反派の「新思潮」も形成されたのであり、現在の到達地平から古いものを全否定するのは事実として誤りというのみならず、自分らの思想の形成過程を対象化し、教訓化することを放棄することを意味する。
「毛沢東は正統と異端の二重性格を兼備していたが、その根源は一九四九年建国以降の社会主義社会での階級、階級闘争への二重の概念にあった。宋永毅の異端の分類に対してここで強調しておくべきことは、宋永毅の文章が列挙している文革三大極左思潮(『新生官僚特権階級の打倒』、『旧国家機関の粉砕』、『階級関係大変動論』)は実のところ均しく毛沢東およびその文革グループに直接源を発しているのである」。(雲林「文革異端的判別標準」)
同じことを粛喜東、芦笛も述べていることを先にふれたが、新たな思想はそれを組み替える(それは時にはその部分的廃棄も含むだろう)ことを通して可能となったのである。

7.「人民の文革」の総括
 文革終息後、「反思」という言葉が流行した。「反省」とややニュアンスの異なるこの表現は、「新語辞典」によれば元々は哲学用語だったが、今は「往事のことの得失是非をふり返り、そこでの教訓と経験を総括し、認識する」という意味で用いられている。
だが「二年(ないし三年)文革」を民衆が共産党の恐るべき秩序に抗した「革命」と見る彼らは、「革命」を反思しようがないではないかという。
「われわれが誠実な態度で革命を反省するのはいいことだが、しかし私はあのような中国共産党当局による造反派迫害を基礎にした文革への反思を受け入れることはできない。革命への反思といえば、私には身体で感じ取った重要な何点かがある。第一点は共産党の秩序は革命の中の無秩序より恐るべきものだということである。第二点は共産党による系統的な政治的迫害は、秩序が保持されているときは人々にわざと忘れたふりをさせることができたとしても、人々はもはや儒家の思いやり、弱者の保護という原則を信じてはいず、こぞって迫害者を侮っている。というのは共産党の秩序なるものは、迫害を蒙っていない者、迫害された者への傍観者までもを差別するものだからである。しかし人々はこれらの迫害を本当には忘れていないのであり、だから一旦政治的支配が緩むや迫害された者たちはすぐさま革命愉快症となって爆発するのである。「六•四」時の学生たちが自分たちは平和的、非暴力的なのだと述べたとき、彼らは革命が一旦真に爆発するや、その結果は誰にも止めようがなくなる可能性を決して分かっていなかったのだ」。(「再談『文革』」)
ここには「革命」を経験した者のリアルな権力観がある。同時にそこには彼ら「コミューン革命」派をもとらえていた「革命」を「改朝改代」(王朝の交代)、「階級関係の大変動」、「財産と権力の再分配」と見る中国左翼の「革命」観の面影も伝わってくる。その上でこの「革命」に関わった者としての反省、総括はなされているわけだが、興味あるのは彼らが「文革徹底否定」論が人々に広範に受け入れられたのは造反派の運動の欠陥の故でもあったと認識していることである。

 王希哲――「各派間の民主」の問題が提起された
 「プロレタリア文化大革命以来、階級闘争の反映である各派間の闘争の経験は、新しい問題の研究を望むマルクス主義者の面前に、各派間の民主を突出した形で提起した。なぜならこの双方はいずれも民主的権利を持つべきだからである。一つの派が別の派を圧迫したのではうまくいかない。この種の後遺症は今なお少なくなったといえるだろうか?
ここでわれわれは理解するのだが、革命の隊列内部における、現在ではいわゆる『潮流派』と『反潮流派』の間の、過去においてはあのような圧迫と被圧迫との間の、甚だしくは鎮圧と被鎮圧の関係を、団結にもとづく批判と反批判の関係に変えるのでなければ、階級的民主は存在しえないのである。人民民主独裁が各派間の独裁に変質するならば、その独裁的な党派がたとえ『正しく』とも、広大な人民大衆を団結させることはできないのであり、それが誤っているときはまさしく社会ファシズムの始まりとなる」。(「李一哲大字報」)
 日本での党派間対立を考えるとき重要なこういう認識が、一九七四年の時点ですでにあったわけである。

楊小凱――「文革徹底否定」には「民意の基礎」があった
「実際のところ、彼らは中国共産党が維持してきた一七年間の暴政、各級官僚による政治的迫害と経済的搾取に対して反抗し、報復したのである。それに迅速に出現した大衆組織のなかにはある社会集団の利益を鮮明に代表する労働組合に似た一部の組織があった。たとえば『全国紅色労働者造反総団』(簡称『全紅総』)は契約工、臨時工が闘い取った経済的利益を鮮明に代表する造反組織だった。〔……〕概していえば、造反派大衆組織の発生は萌芽的な人権意識の要素をはらんでおり、それは正義性を具備していたのである。
しかしそれではいかなる原因が理性を備えた組織を迅速に暴力へと向かわせ、自己と他人と社会に重大な災難をもたらしたのか? 鄧小平復活後の中国共産党が『文革』を全面的に否定したのは、これらの組織と造反が発生した所以である正義性を覆い隠すためであった。彼らは各々自らの『十七年の暗黒』を持っていたのである。\nだが否定できない事実は、『全面的否定』には相応の民意の基礎があったことである。その根本的原因は造反派の行為の社会的結果への民衆の幻滅と嫌悪であった。そしてこの感情は今に至るも共産党当局によって、真の民主政治、政党政治と自由に反対するのに利用されているのである」。(楊建利、楊小凱「身体自由脳袋不自由――『文革』中『結社自由』的性質、教訓及対未来民主憲政的啓示」)
「従って、われわれは『文革』中の『自由』の本質を正確に把握しなければならず、造反派の行為方式に対する詳細かつ徹底的な分析と自己批判をしなければならない。そしてこれらの分析と自己批判はかっての造反派の良心の呵責というより、自己自身が未来に向けて提出する戒めと期待なのだ」。
「造反派はその発端において正義性を備え、萌芽的人権意識を持っていたとはいえ、根本的には『毛沢東』の枠組みから超脱できていず、すべてのことの最終的決裁者は『毛沢東』であった。その発端が左であれ右であれ、人々は皆やむを得ず思想的には左に寄ったのであり、行動上左翼的であることを競い、完全に毛沢東の左の穴に落ち込み、さらには毛沢東より左翼的であろうとしたのである。だからそこでは共産党イデオロギーからの独立は生まれず、さらに明確な民主的憲政思想が育つこともなかった」。
「造反派が一定程度自由思想を持っていたとしても、それは消極的意味での自由思想ではなく、積極的意味でのそれが主導的地位を占めていた」。
楊小凱らはここで積極的自由の追求は独裁を招来し、消極的自由の追求こそ民主主義への道だというバーリン「自由論」(みすず書房、一九七一)を援用しているわけである。

鄭義――「第二の文革の敗北の歴史的必然性」
鄭義は「第二の文革の敗北もある種の歴史的必然性を持っていた」として、つぎの二点を上げている。一つは造反派運動がおおむね「毛沢東の呼びかけに応じて」、「奉旨造反」という形を取ったことの諸結果であり、もう一つはそれがたちまち激烈な「内戦」となったことである。
毛沢東の名を用いての「奉旨造反」は当座はきわめて大きな効果を発揮し、闘争の発展に有意義に見えるが、しかしそれは大きな危険をはらんでいるという。
「プロレタリア独裁の名で毛沢東を奉じることは、きわめて厳密に編成されている専制主義の虚言の網の目に絡め取られることになる。もし無自覚に利用したのであれば、それはわれわれの思想を束縛し、虚言を持って真実とし、偽りが本当のこととなり、虚言の欺瞞を強めることになる。たとえ自覚的に利用したとしても、それはわれわれを自縄自縛に追い込み、歴史的チャンスが真に到来したとき、すでに腐敗した政治的枠組みを乗り越え、真に民主的な要求を提出することを困難にしてしまうのだ」。(「両个文化大革命雏议」)
「民衆と『皇帝』との関係の他に、民衆内部の関係もまた研究に値する課題である。ここには避けてはならない問題がある。第二の文革(すなわち人民の文革)は人民と共産党の大小の貪官汚吏との闘争であるのに、どうして激烈で残酷な内戦が各派大衆組織のあいだに爆発したのか?
中国共産党の『十七年』の暗黒統治を弾劾し、官製組織と各級の共産党機構を攻撃していた時期では各派の造反派組織は大体のところ協同一致していた。不幸なことに、奪権が始まり、真空になった権力を補填し権力を再分配する局面に直面して、造反派の分裂は滅ぼすか滅ぼされるまで闘うことを誓った両大派の対立となり、長矛大刀から機関銃、戦車の各種の武器を用いた血戦が始まった」。
「第二の文革は疑いもなくある種の民主的色彩を備えていたが、しかしそれは現代的民主制度を建設することを試みるには程遠かった。打倒は制度の転換ではなく、造反は取って代わることを意味した。権力構造の問題を根本的に解決するのでなければ、権力の争奪はまずわれわれ自身を内部から打ち砕くことになる。恨みを晴らすではダメであり、造反打倒ではダメであり、王朝の交代的な取って代わるではダメなのである。それは自由への道ではなく、それにそれら無原則的な権力闘争は人民に多大な苦難をもたらしたのである。これがすなわち一般民衆にもまた『文革徹底否定』の傾向がある一つの原因なのである」。
 このように彼らは「人民の文革」に無批判的なわけではなく、その反省、総括を進めているわけだが、ここでは思いつく二点を指摘するにとどめよう。
 その一つは、楊小凱、鄭義の総括を見るとき、先にふれた中国左翼の通弊たる「改朝改代」、「財産と権力の再分配」という「革命」観への反省、総括がなされつつあると感じられることである。この「財産と権力の再分配」という言葉は毛沢東が『戦国策』について語った中にあったものを江青がその講話「人民のために新たな手柄を立てよう」で引用し、当時、造反派紅衛兵たちに甚大な影響を与えたものである。「コミューン革命」論はその種の「革命」観の転覆であったのにもかかわらずである。
 一方、にもかかわらずその「コミューン革命」論が「社会革命」論としてほり下げられていないことである。それはたとえば先に見たように「闘•批•改」期の「社会主義的新生事物」への無関心に示されている。
 しかし造反派紅衛兵世代や「新思潮」派にこの問題領域への関心がなかったわけではなく、彼らは自ら「社会調査」を行なったり、臨時工•契約工の運動に関わったりしてきた。
だがそれらは弾圧され、また江青•張春橋グループの「新生事物」への反発もあってそれを深めていないということなのか?

五、今後の検討課題――「告別革命」論をどう見るか

 さて、「二つの文革」論者たちは「毛沢東の文革」を批判しつつ、そこから「人民の文革」を分化させ、そうすることによって自分ら造反派の運動を救済し、今日の「民主化」運動に繋げようとしている。そして「人民の文革」も無傷だったわけではなく、毛沢東崇拝からの脱却の過程、とりわけ悲惨な造反派間武闘について反省、総括しようとしている。
だが彼らの前に一つの強力な論点が持ち出されている。すなわち「告別革命」の主張である。
戊辰変法(一八九八年)のあと、二〇世紀に入っての中国は、辛亥革命(一九一一年)、国民革命、そして中国革命(一九四九年)と三度にわたる革命を行なってきた国である。とりわけ五•四運動(一九一九年)以降、革命、それもマルクス主義的な意味でのそれが体制批判者たちにとって追求すべき第一義の課題となり、そして当然一九四九年以降は、革命は疑いを許さない絶対的価値であり、くり返し想起すべき栄光の事跡となった。
 その中国でついに革命を否定する言説が登場したのである。民主派知識人たちの一部による「告別革命」論の提起である。李沢厚、劉再復の対話録(『告別革命――回望二十世紀中国』天地図書、一九九五)の表題に用いられたこの言葉は以後人口に膾炙し、それへの賛否両論がインターネット論壇を賑わしている。
その背後にあったのはいうまでもなく文革体験であった。鄧小平とそれ以降の中国共産党当局は建前としてはマルクス主義と革命を保持しつつ、「文革徹底否定」大キャンペーンによってそれを空洞化させていく。そして一八九八年の「六•四」運動(天安門事件)、それを前後するソ連•東欧の崩壊のなかで、国際的なマルクス主義と革命への否定の流れが中国にも波及したわけである。
「告別革命」論に先立って二〇世紀中国の革命経験をふり返る論議が始まったのは一九九〇年代の「急進主義」批判である。それはまた「六•四」運動の総括でもあった。だがそれらとは別に紅衛兵世代のもう一つの総括作業が進行していた。その代表的なものとして楊小凱の革命批判がある。
楊小凱が革命の否定的問題性にふれた「中国政治随想録」を書いたのは一九八七年であり、「六•四」の前である。つまりそれはソ連•東欧解体以降の全世界的な社会主義と革命の権威失墜の前であり、楊曦光にとってそれは文革総括の一端だったわけである。今日、楊小凱は自らの「反革命」としての立場を部分修正している。
「現在、私はこの観点を修正しようと考えている。というのは革命理論にもその合理性があるからだ。〔……〕革命は総じて統治者に対する一種の威嚇である。この威嚇がなければ政府の人民への奉仕の承認も信じがたい。威嚇があってはじめてその行為も物事の筋道から大きく外れることができなくなるからだ」。(向継東「革命与反革命及其他――奥州社科院院士、経済学講座教授楊小凱訪談録」)
楊小凱は「革命権」を再確認したわけである。
「二つの文革」論との関連でいえば、「告別革命」論の主張は、文革の失敗はそれが「毛沢東の文革」だったからだけでなく、「革命」そのものの問題性なのだということになる。ということは「人民の文革」もまたそれを免れないことになる。
「新左派」たちの一部はすぐさまこの「告別革命」論に噛みついている。
「一つの幽霊、革命よさらばという幽霊が中国を徘徊している。一つの声、革命よさらばという声が中国に木霊している。それらをちょっと聞いてみよう。
孫中山は二十世紀中国の乱臣賊子である。辛亥革命は巨大な歴史的悲劇であり、中国の憲政への道を閉ざしてしまった。
毛沢東は李自成と始皇帝を足したものであり、中国革命は根本的に一つの歴史的誤解であって、日本の侵略が中国革命の成功の機会を与えたのであった。
一九六八年五月、パリの街頭に流れたあの鮮血こそ革命の太陽が歴史の天空に投げかけた最後の残照だった。〔……〕
一九九〇年代の中国はもはや二〇余年前のあの中国ではない。すべてのものはただ形式上禁止されるが、個人的交流の場に持ち込まれることを誰も禁ずることはできない。こうしてこの何の論証も必要とせず自然に成立した命題が中国に流伝し、それが広まる速度は比べようのない伝染病そのものだった。
ここ数年、人々が皆喜んで受け入れた有名な言い方は『中国は絶対乱れてはならない』であった。
ここで教授先生たちはいう、革命よさらば、中国は混乱してはならない。民主人士たちはいう、革命よさらば、革命はただ専制をもたらすだけである。社会のエリートたちはいう、革命よさらば、革命はただ富を奪い、貧者を救うだけである。青年学者たちはいう、革命はただ流血の犠牲をもたらすだけである。官位に就いた貴人たちはいう、革命よさらば、安定が一切を圧倒する。……革命よさらば! 革命よさらば!」(粛武「革命死了、革命万歳!――為革命申弁」)
 それでは「二つの文革」論者たちはこの問題にどういう態度を取ろうとしているのか? それがつぎのテーマである。
追悼:この7月7日、楊曦光死去とのことです。55歳(あるいは56歳)。 ネットに元造反派たちの追悼がたくさん流れ、劉国凱、王希哲らが弔辞を書いています。
(編集部)

http://kaihouha.org/bunkaku2.htm
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 楼主| 发表于 2017-6-4 03:30:56 | 显示全部楼层

中国の「新左派」・「自由主義」論争 №3――「告別革命」論をめぐって

中国の「新左派」•「自由主義」論争 №3――「告別革命」論をめぐって


時田 研一           


註:前二回において中国での文革論議の新たな展開についてその概略を報告し、それがわれわれに喚起する諸テーマについて若干のコメントを行なってきた。だが話がやや錯綜してしまっており読者諸兄(姉)に話の筋道がつかみがたくなっているかも知れない。それは筆者が大まかな見取り図だけで非官製の夥しい文革サイトに足を踏み入れ、初歩的解読力で論点を探るうち記述が混濁したことによるのだが、さらに当事者間の論議そのものが相互批判を含めて現在進行形であることも関係している。今回ひとまずこの作業を終えるに当たってここで若干の交通整理をしておこう。その上で本号のテーマである「告別革命」論の紹介に入っていくことにする。なお個々の発言、文章の出典は基本的に省いた。すべて「インターネット論壇」で公開されたものである。

〔なお、この小論をひとまず終えたあと中国情勢は突如段階を画する新たな局面を迎えている。言うまでもなくラサをめぐる事態、オリンピック聖火と「噴青」たちの動き、そして胡錦濤訪日と四川大地震である。
この三つの事態をめぐって「インターネット論壇」をはじめ中国での議論は沸騰しており、「新左派•自由主義論争」は新たな様相を呈し始めている。「新左派」、「新毛派」の論客たちは中国は「空前の困難局面」を迎えていると危機感を煽り、国内外での「噴青」たちの動きを「五四運動」(一九一九年)の「再来」、外国帝国主義の「和平演変」(平和的反革命)」を意図した「街頭革命」を唯一封じる「愛国主義大衆運動」の登場などと絶賛している。
こうした事態の急転のなかで、過去、改革•開放による格差の激成を受けてすでに始まっていたイデオロギー分野での「新左派」、「新毛派」の優勢は加速され、「自由主義」は瀬戸際に追いやられているという見方もある。ここでのテーマとの関連で特筆すべきは、王希哲が「噴青」たちを高く評価し、自ら「自分の思想は今まさに変わりつつある」と言うようにその強烈な「民族主義」、「国民国家」主義を完成させつつあることである。
また以下の作業で重要な示唆を得た汪暉は「新毛派」との対話のなかで、ラサ事件に関連して中国とチベットの関係は西欧での「民族」、「民族国家」間関係とは異なるアジア特有の「族群」(エスニック)関係なのだとして西欧の見方を「オリエンタリズム」と批判するのだが、仮にそうだとしてその関係のなかに抑圧、被抑圧はあるのかないのかという肝心の事柄については述べていない。
これらのことは以下の作業での「新左派•自由主義」対立の構図をとらえ直すことを必要としており、何よりこの新たな時代の到来のなかで文革論議がどういう意味を持ちうるのかを抜本的に見直すことを課しているのだが、今回は間に合わず旧来の認識構図のままとなっている。今後を期すこととしよう〕



【目次】
一、文革論の新たな展開――これまでの叙述の整理
1.今なぜ文革なのか――この作業の意図
2.これまでの叙述の基本的論旨は何なのか
二、「告別革命」論の展開――楊曦光と李沢厚•劉再復
 1.楊曦光「中国政治随想録」――「マルクス主義政治理論の浅薄さ」
2.李沢厚、劉再復「告別革命」論
 3.「告別革命」論への賛否両論
三、一つの展望――汪睴の「脱政治」克服論
1.文革の拒絶は「二〇世紀中国の全否定」である
2.「悲劇」としての文革――遇羅克の闘争と犠牲
3.「悲劇」をいかに克服するか――「脱政治化」から「再政治化」へ



一、文革論の新たな展開――これまでの叙述の整理

1.今なぜ文革なのか――この作業の意図

最初にこの連載で意図したことを要約的に述べておこう。それは文革終息以
降、当の中国で始まり、全世界を覆った文革イメージを見直してみようということであった。日本も例外ではなく、むしろそこでこそあっけらかんの忘却か、その「悪魔化」(原語は「妖魔化」。「妖魔化中国」等、新たな中国ナショナリズムが好んで使う語彙である)が著しかったのである。
しかしこの作業はいわゆる「文革の再評価」を直接に意図したものではない。一九六六~一九七六年当時、自分らの運動とほぼ時期を同じくした文革の社会性、政治性に当時われわれは解放性、普遍性を感じることは出来ず、とくにシンパシーを抱くことはなかったのだが、一方ではそこにはまた日本の革命の展望を近•現代史における運命的な〈中国〉との思想的•政治的な、さらには地政学的な関連構造をとらえ返して構想することに不充分であったことも作用していたのかも知れない。
それでは今になってなぜ文革なのか。幾つかの事柄があった。
一つは中国共産党の官製文革史とそこでの総括とは異なる当事者たちのもう一つの声が日本のわれわれにも届き出したことである。
それらかっての造反派紅衛兵たちの回想、総括には紛れもなく同時代的な政治経験の姿があった。そこからは「文革徹底否定」に集約される官製文革史が描き出す世界とは大きく異なる文革像が浮かび上がってきた。
彼らは「内ゲバ、連赤」以降、日本の新左翼が置かれた状況の比ではない実体的打撃ともはや救出の余地なしと思わせる逆境のなかで、なおかつ自分らの文革経験の意義と誤りを探り出そうとしており、そしてついに「文革徹底否定」論の歴史偽造と政治的意図を暴き出すことを通して自らの文革経験の意味を救出しつつあった。
このように表向き完全に否定され、過去のものとなり、忘れ去られた筈の文革は人々の記憶のなかになお渦巻いていたのであり、それは一九九〇年代末に始まった「新左派」•「自由主義」論争においてもなお影の主役であった。
だが日本の言説界はそれらの新たな動向にふれることはなく、「文革徹底否定」論のなかに怠惰に安住していた。それら新しい動きをたどってみようと考えた。
もう一つは中国問題の専門家、研究者たちの多くが現代中国の問題を語るに当たって文革の問題を避け、それに触れないで済ましている傾向である。しかしそんなことは可能なのか?
のちにまた見るが、現在中国の学生たちに声望高い「新左派」汪暉(清華大学教授)は「中国六〇年代への理解なくして二〇世紀への根本的理解を真に生み出すことは不可能である。そして中国六〇年代の最も特徴づける問題は疑いもなく文革である」と述べている。
すなわち世界の言説界を今なお覆っている趨勢、「文革徹底否定」論が論議の到達点だと錯覚して安堵して「忘却」するか、あるいは「悪」としての文革イメージを振りまく傾向は文革認識にとどまらぬ世界認識上の欠陥、偏りを示しているということになる。
三つ目に文革はただ忘れ去られたのではなく、「悪」の代名詞となってきたわけだが、近年それには毛沢東への批判のアップと増幅しつつ「大虐殺の事例」というより禍々しいイメージが附与されてきている。
クルトワ『共産主義黒書』(恵雅堂出版)の世界的ベストセラー化に象徴される傾向のなかで「歴史修正主義」者のみならず、「共産主義とナチズムの同質性」を語ることが世界で「流行」となり、中国民主派の内部からも「文革=ナチス」論、「毛沢東とヒトラー、スターリンは二〇世紀の三大暴君である」(胡平)というような言い方がされるようになったのである。
この風潮は日本にも及び、良質の論者たちの発言の中からも「スターリンの大粛清、文革、ポル•ポト」(森達也•姜尚中『戦争の世紀を超えて』講談社、二〇〇四)というような言い方が浮上し始めた。
オウムを内在的にとらえる眼を持つ著者らはこの三者を一緒くたにしているわけではなく、「人間変革」の動機の有無という点で文革と「アウシュヴィッツ」との区別が語られている。そのことをふまえた上で、しかし三者をつらぬく共通項として「大虐殺」が抽出されるとき、やはり各々の事例の区別性は後景に退き、それらの事実の掌握と政治的分析の重要性を蔑ろにする傾向に棹さすことにならないだろうか?
その「虐殺」の多くが、どの時期、誰が誰に対して行なったものだったかを明らかにすることを通して文革勝利者たちによる文革史の偽造を暴き出し、これまでの文革像を一新することにかっての造反派世代の努力は集中しているのである。
原理的に抽出すれば同質に見える政治思想もそれがどのような媒介構造を備えているかによってそれが現実に適用された場合の諸結果は千里の径庭となるのである。だから幾つかの大きな政治的出来事を分析するに当たって必要なことは、そこに共通する思想の型を抽象化することが本質把握なのだと錯覚するのではなく、そこにある差異をきわどく弁別し、その各々の意義と限界、救出すべきものと破棄すべきものを認識することなのである。
文革とポル•ポト「カンプチア革命」についても後者が前者の影響下になされたこともあって両者の政治思想的な同質性を語ることで済まされることが多い。それがまったくの間違いではないにしても、しかしその誘惑に抗した弁別力もまた必要である。
たとえば芦笛は、毛沢東は「明らかに理想主義的でロマンチックな気質の革命家」という面と「老練で用意周到、無比の洞察力ある政客、謀略家」という面とを併せ持っていた「矛盾に充ちた人物」だったとしてこう述べている。\n「このような内在的矛盾により毛沢東は永遠に現状に不安であり、永遠に『継続革命』を必要とするが、他方永遠に既存の枠組みを突破することはできず、ただ限定的な改革を思い切ってやっただけであった。『五七道路』、『裸足の医者』、『工農兵大学』の類『新生事物』がそれであり、ついに中国をあのカンボジアのような鮮血淋漓たる『ユートピア』に変えることはなかったのである」。
ここには「プロ独下の継続革命」、社会主義のもとでの文革とロン•ノル政権打倒の「カンプチア革命」との違いがあるにしても、毛沢東政治とポル•ポト無媒介政治との弁別すべき違いがはっきりあるのである。
また毛沢東政治を厳しく批判する李沢厚のつぎのような主張も同じ問題をめぐっている。
「覚えているのだが、七〇年代後期私は毛沢東が国内問題の解決のために中ソ戦争を引き起こすのではないかと心配した。だが彼はそうはしなかった。この一点から言っても毛沢東はやはり『英明偉大』だった。彼をスターリン、ヒトラーに比す人がいるが私はまったく同意しない」。
ヒトラーの政治はこういう場合戦争に踏み切ることに躊躇しない悪魔性をはらんでいたというのである。
ジジェクが、スターリンの誕生日にラーゲリの苦役のなかから挨拶の電報を送る政治犯という関係構造は了解できるが、アウシュヴィッツからヒトラーに挨拶を送るユダヤ人は考えられないと言うのも、スターリン主義とナチズムの区別と同一性をめぐる同じような認識なのだろう。
「スターリン主義者の粛清はファシストの暴力よりある意味で不条理なものであった」ことは認めなければならないというというジジェクがなおかつこのエピソードを持ち出す趣旨には異論がありうるにしても聞くべきことであろう。(『迫り来る革命』、「二つの全体主義」等を参照)
ここでのテーマに戻ればこうである。ナチスが拷問と処刑であったとすれば、毛沢東と中国共産党の反対派や異論弾圧の手口は人の主体性の存在根拠を蹂躙して解体し、屈服させて思想的、政治的奴隷にする側面を持っていた。「士は殺すべし、辱めるべからず」という声があったというのは事実なのだろう。
だがそれは毛沢東と中国共産党が当初から「悪」だったということなのではなく、その意図の基調はあくまでは抑圧からの解放と人間変革なのであった。しかしそれが反対派や異論を敵性のものと見なして「解放と変革」を実現しようとしたときに「悪」へと転化する。
だがそこから、従って「ナチスと毛沢東は同じ」だと見なしてしまうや、「二つの全体主義と闘う民主主義」への無批判的擁護とならざるをえず、「解放と変革」への思想的契機を喪失することになる。
必要なことは良き意志の「悪」への転化の構造の真剣な解明を通して、社会主義の破産と「新自由主義」の制覇という圧倒的な構図の只中において、破棄すべきものと救出すべきものをきわどく弁別する力なのであり、政治的分析力なのである。
もっとも「事実分析での怠惰」というなら、久々に文革を一定のスペースをもって取り上げた『朝日』の連載「文革と向き合う 終結から三〇年」(〇六、九)、NHKドキュメンタリー「民衆が語る中国 激動の時代」(〇七•一二)にしても、彼らの官民情報収集の圧倒的優位さにもかかわらず、その視角はつまりは「災厄としての文革の負の遺産を今なお背負う人々がようやくそれを冷静に見きわめようとする努力を始めている」という類の紋切り型の編集でしかなかった。
ここにはその善意、誠実さをも覆ってしまっている一つの現代の「パラダイム」が作用しているのだろう。そして文革をそのように定義したとき見えて来る二〇世紀の総括、そして二一世紀への展望に問題はないのか?
まずは現代の鬼門、文革について考え直してみる基礎的作業を行なってみよう。そして今日世界を覆う「パラダイム」を対象化し、「なぜナチズムが断罪され共産主義はされないのか?」(邦訳『共産主義黒書』帯)に何ごとか言えるかどうか考えてみようと思ったのである。\n文革は「当初からの悪人が引き起こした只の悪事」などと見る総括は問題にならず、さらに『毛沢東の私生活』や『マオ 誰も知らなかった毛沢東』も、そこに描かれた個々の事実の評価はさておき毛沢東論としては問題にならないものであった。あくまで「良き意志あるいは現状変革の志向がなぜ悪を生み出したか?」がこの種の事柄への唯一妥当な接近の仕方だろう。その場合何を手懸りとするかは種々の方法があるわけだが、たとえば李沢厚がこういうことを言っていた。
「当時〔文革期〕中国人は変わってしまい、ただ二種類の人間、虐待を専らとする者たちと虐待されることに没入する者たちを残すだけとなった。〔•••〕前者はあらゆる最も悪辣な言葉とあらゆる最も凶悪な手段をもって相手を痛めつけた。後者は懸命に自己批判し、常軌を逸して自分を呪い、汚辱し、悪罵するのみならず、先祖や親たち、とりわけ『黒五類』、『黒九類』出身者を悪罵した。そして自分をゼロであり人ではないと貶すのみならず、それ以下、すなわち牛鬼蛇神、害虫、家畜に等しいものであり、牛棚に入れられるのにまったくふさわしいと自己卑下した。一面では自己批判し、一面では他人を捕まえ摘発した。〔•••〕彼らの光景はなお幾分かの理性にもとづき行われたのであり、それらの教訓は決して忘れてはならないのである」。
以上の見解は文革における「善」と「悪」の連関構造を見ていく上で言語の問題が一つの手懸りとなることを示唆している。言語ではなく実際に何が起こったかだというのはそうだとしても、テーマを「良き意志あるいは変革意志がいかなる媒介構造を通して悪を生み出したのか、それに耐え、抗し、そしてついには離脱する契機は何だったか」というふうに設定しないかぎり「虐殺」の意味も明らかに出来ないのであり、政治言語はそのための重要な手懸たりうるのである。
その眼で見るとき、ソルジェニーツィン『収容所列島』や内村剛介『生き急ぐ』等は「スターリン大粛清」を考える上で不可欠であり、ポル•ポト「キリング•フィールド」にもただ黒色の書割のもとでの沈黙と殺戮だけがあったのではなく、ポル•ポト語録や「オンカー」語彙とスローガン、被告たちの拷問下での厖大な尋問記録(「S21 記録文書」)が残されていた。まして文革は「毛沢東語録」のみならず「中央文革」アジテーター言説、「走資派」言説、造反派言説が交錯する圧倒的な文革言語世界だったのである。

2.これまでの叙述の基本的論旨は何なのか

本稿は中国における新たな文革論議をおおまかに紹介し、それに若干のコメントをつけたものだが、その論旨をあらためて要約すればそれは造反派世代の「二つの文革」論、その集約としての「人民文革」論への関心と一定の共感のもとになされている。(これら「人民文革」論の主唱者たち、とりわけ王希哲の「台湾独立」、「チベット独立」の動きをめぐる強烈な「民族主義」、「愛国主義」、その「国家主権」、「民族国家」を不動の前提にした「開疆拡土」(領土を開拓し、国土を拡げる)的思想傾向への批判的検討は別の機会とする)
その場合、問題の核心は毛沢東と「毛沢東文革」の評価の仕方にあり、それの持つ解放性と抑圧性の関係をどう押さえるかが重要な課題となるのだが、「自由主義」は前者を見失うことによって「文革=ナチス」論、「毛沢東とヒトラーの同質性」論に引き寄せられ、「新左派」とりわけ「新毛派」は後者を見失って毛沢東とその文革は基本的に問題なかったのだという無反省な主張になってしまっている。 
だが比較的妥当な線を行っている「人民文革」論もまたそれと「毛沢東文革」双方の関連構造の把握においていまだ多くの不充分さ、曖昧さを残しており、またその内部での主張の異同がある。
「自由主義」と「新毛派」の批判は鋭くそこを衝いており、とりわけ「新毛派」粛喜東の卓越した論旨の展開は共鳴すべき点も少なくない。(だが彼の場合にしても毛沢東と「毛沢東文革」の抑圧性の問題にふれるや途端に文章の切れ味が鈍り、あやふやなものとなる印象は否めないのだが)
そのかぎりでは「人民文革」論についても「批判的摂取」が必要である。そのリーダーの一人王希哲の論は「人民文革」との関係での「毛沢東文革」の解放性と抑圧性の問題に自覚的であり水準の高いものとなっているが、しかしそれもいまだ粛喜東の批判を全的に撥ねかえせるもとはなってはいない。
以上のような入り組んだ論争展開がこれまでの叙述の論旨展開を分りにくくしており、若干の誤解をも生み出した根拠となったように思われる。ここで問題の輪郭を再整理しておこう。

 (1)「文革徹底否定」論とそれへの批判

出発点は文革終息後、中国では文革評価が当局によって決定され、それ以外の評価は容認されなかったこと、のみならず文革についての論議自体が禁じられたことにあった。鄧小平の「宜粗不宜細」(歴史の総括は大づかみに行なうべきで、細部にこだわるべきではない)、「不争論」(論争を認めない)につらぬかれた「文革徹底否定」論の国是化である。
それは毛沢東の文革がはらんでしまった「悪」への民衆的反撥を根拠としているわけだが、同時にそれは「走資派」として文革の打倒対象とされつつ、しかしそれに勝利した共産党官僚層の露骨かつきわめて巧妙な言語戦でもあった。
 こうして「野心家たちの反革命的内乱」という規定が中国全土、そして日本、ヨーロッパ等をも覆いつくし、その結果文革への関心は急速に失われ、ついには文革について考えること自体が何の意義もない、アナクロニズムでしかないとされるに到ったのである。海外民運派の「八九世代」(天安門事件参加者)にもこう言う者もいる。
 「文革終息後三〇年たっただけでそれはすでにあらゆる影響力を失っており、人々の現実生活のなかには跡形もない。〔•••〕今日の青年たちにとって文革はまったく分からないものとなっているだけでなく、それを体験した者たちにとっても隔世の感あるものとなっており、人々の文革への記憶さえも『商業と娯楽、気晴らし』に支配されている」。(陳子明)
 今日、「大国」化しつつある中国との関係について多くのことを考えざるをえなくなっている日本の各界にとっても文革はすでに忘れ去って何の支障もないものと見なされている。
だがこの「文革徹底否定」の勢威もじつは仮象であった。その地表下では、自分らの運動を全否定されるわけにはいかないということで当局とは異なる独自な総括作業が続けられていたのである。表舞台に出ることは許されず地下でなされたそれらの総括はどういう層によってなされた、どういう発言であったのか。
 まずかっての造反派である。造反派世代といってもその大半が文革終息後沈黙するなかで、その一部は厳しい弾圧のもと密かに独自の文革総括を続けてきており、一九九〇年代に入ってその思考の一端を文章化し始めたのである。
その多くは自分らの運動が文革後期、毛沢東と中央文革によって裏切られ、路線転換の生贄とされたことにこそ文革の本質があったのであり、必要なことは当時見るべき実体のなかった「人民文革」などというものを主張することによって文革に延命の余地を与えるのではなく、それをまったくの「悪」として否定し尽くすことであると考えている。これが今日「自由主義」という立場に立つ彼らの主張である。
だが造反派のすべてそう考えたわけではなかった。その中の少数は文革には共産党統治の抑圧性からの大衆の解放を目指す側面があったのであり、それが自立の動きを示すや毛沢東と中央文革によって裏切られ、スケープゴートにされたのだという認識であった。
こうして彼らは文革には「二つの文革」、「毛沢東の文革」から生まれついにはそれと分岐するなかで弾圧された「人民の文革」があったのだという見方にたどりついていく。
 楊曦光(湖南省無聯)、「王希哲(王一哲大字報」)、鄭義(精華付属中学)、劉国凱(広州「旗」派)、等である。だが一九八九年天安門事件以降、大陸中国に彼らの活動の場はなく、その多くは「自由主義」派文革世代と共に海外流亡の途を歩んでいる。
 
(2)「自由主義•新左派論争」のなかの文革論

 これら造反派世代の文革総括は地下でなされたのであり、公然化は許されなかったのだが、「文革徹底否定」への批判がある程度表舞台で論議となったのは一九九〇年代末から始まった「自由主義•新左派論争」においてであった。
この論争は直接文革をテーマとしたものではなく、鄧小平「改革•開放」の諸結果のもとでの中国の内外政策をめぐるものであり、日本での取上げられ方もその枠を出てはいない。だがこの論争をその深部で規定しているのはまぎれもなく文革であった。以下直接にはそこで断片的にしかふれられていない文革を主役にしてこの論争を再構成してみよう。
文革終息後の「思想解放」のもとで共産党当局の守旧的な傾向に批判的な自由派知識人層の圧倒的多数の見解は、当局の「文革徹底否定」とは異なるものしてだが、やはり文革批判であった。そして共産党内の開明派と連携して抜本的な政治改革を主張する彼らの発言、主張は「新啓蒙主義」といわれ、一九八〇年代の指導的なイデオロギーとなったのである。
だが一九八九年の天安門事件を転機としてこれら自由派知識人の動揺と分岐が始まる。運動が鄧小平の弾圧で敗退したあと、知識人の間に挫折感と共に「新啓蒙主義」が含んでいた「急進主義」への反省、批判が高まり、「新権威主義」、「新保守主義」などの当局寄りの諸傾向が生まれている。
この分岐にさらに追い討ちをかけたのが一九九二年の鄧小平「南方講話」を鬨の声とする「改革•開放」の圧倒的な展開であった。こうして従来その反当局側姿勢を売りとする自由派知識人層は鄧小平政治を基本的に支持する層と「改革•開放」は支持しつつも政治改革の立ち遅れを批判して当局から警戒される層とに分岐し、後者は「自由主義」といわれて八〇年代の「新啓蒙主義」に代わる思想的ヘゲモニーを握ったのである。
この当局に批判的な「自由主義」にとっても文革は根底的に批判されなければならないものであり、それは天安門事件以降海外に亡命した「海外民運派」の主流においても同じであった。\n注目すべきは彼らによって共産党当局の多分に政治主義的な「文革徹底否定」とは異なる深みを持った文革批判が行われたことであり、それは文革の政治的のみならず思想的な総括にまでつき進み、さらには世界的な「革命とマルクス主義、共産主義批判」の流行を受けて、今日の「文革=ナチス」論や「告別革命」論へと到ることになる。
いずれにせよこうした官民双方からする文革批判が時代の支配的言説となるなか、先の造反派世代による「二つの文革」、「人民文革」の主張も大陸中国では日の目を見ることはなく、それらは地下で、香港で、海外亡命先で小規模に論議が続けられたのである。
だがこのような閉塞状況に風穴を開けたのは第一にインターネットの発展であった。一九九〇年後半、ウェブサイト上に厖大な文革異端発言が登場する。官製のものとは異なる個人の回想、総括から民間の「文革文献資料館」や各種「新毛派」サイトの開設まで、これまで決して公開されることのなかった言説群が一挙に登場したのである。しかしそれらはまだ「インターネット論壇」での話しであった。
 第二の要因となったのは一九九〇年代の終わり、「改革•開放」の諸結果が農民の疲弊、大量のリストラの発生、貧富の顕在化として社会問題化するなかで、とりわけ一九九九年アメリカ軍の中国大使館「誤爆」事件をメルクマールとして「自由主義」から「新左派」が分岐し、「新左派•自由主義論争」が始まったことであった。
こうして先に見た自由派知識人の分岐は再編され「自由主義」(通常「右派」と言われる)、「中間派」(当局と一体化)、「新左派」(「左派」と言われる)という形で定型化して現在に到っている。(この分岐の見方には種々の見解があるが、ここではとりあえず閑言(洗岩)の所説に拠る)
文革論との関係でいえば「新左派」は「文革徹底否定」への強い反撥をベクトルとしており、それについては「自由主義」のイデオローグの一人秦暉ですら「今日の新左派の出現は文革への単純な否定に対する報いであり、ひいては懲罰であった」(「新左派と自由主義との争い」)と述べている。
彼ら「新左派」は先の造反派世代の文革論に触発され、それから学びつつ、しかし造反派とは異なる独自な文革と毛沢東の評価へと向かっている。そしてその一人崔之元が「文革にも合理的な側面があった」と述べたとき、「自由主義」は猛反発し、文革論議が過熱化する。
ここで留意すべきはこの「新左派」内部には大きく二つの傾向があったことである。一つは直接には文革をくぐっていない比較的若い世代で、彼らの中心は海外留学をへた学者として世界の現代思想と分析用具に通じており、そこでの「新自由主義」批判の視角から中国の問題、さらには文革の問題をとらえ返そうとしていた。
もう一つは「新毛派」といわれる流れであり、彼らは「改革•開放」による格差をもろに受けた層の情念を受けつつ毛沢東と文革をほぼ肯定的に評価しており、「自由主義」に対しては敵愾心旺盛であり、造反派「人民文革」論に対しても毛沢東文革唯一論の立場から否定的であった。

(3)新たな文革論議の構図

以上の論争のなかから文革論での対立を抽出して双方の論点をつかもうとするとき、「自由主義」と「新左派」との対立は比較的分り易いのだが、ややこしいのは「新左派」内部に二つの流れがあり、文革評価が微妙に異なること、さらにそこに造反派世代による「人民文革」論が圧倒的な論証をもって論争的に登場したことによって、対立軸が錯綜することになる。以下、それをチャート式に腑分けしておこう。

①「人民文革」論構築への苦闘――造反派文革論の今日

まず注目すべきは造反派世代の一部から生まれた「人民文革」論の主張である。王希哲、劉国凱、鄭義らを主な論客とするそれは、文革にはじつは層を異にする二つの流れがあったのであり、そこには毛沢東の発動した文革の中から生まれ育ち、ついにはそれから自立する動きのなかで過酷に鎮圧されたもう一つの「人民の文革」があったというのである。
彼らは今日劉国凱を中心にその実証と論としての整備、他派との積極的な論争に努めており、それは海外でのみならず徐々に大陸内部にも浸透しつつあり、無視できない影響力を持ち出しているようである。
「現在、文革についての研究は人民文革論派が多くの文章と著作を発表しているのに、反人民文革論派は著述をしないだけでなく、ちゃんとした文章も書いていないという情況となっている。彼らの謝った観点を保持するため、専ら枝葉末節の事柄や、文字の使い方でけちをつけたりしているのだ」。(劉国凱)
 「人民文革」論の主な論敵は内容的には当局側「文革徹底否定」論となるわけだが、当局側が戦術的に無視するなか、実際には「自由主義」内文革批判派との論争、文革の意義を認めない八九世代との論争、さらに毛沢東文革の評価をめぐる「新毛派」との論争となっている。

(a)「自由主義」との論争

「自由主義」の「人民文革」論批判の中心は、それもまた「奉旨造反」だったのであり、何の自立性もなかったではないか、「大民主」といってもそれは毛沢東の許容する範囲のものでしかなかったではないか、総じて毛沢東の文革には何の積極的意義もなかったのだというものであった。
王希哲はこう反論する。
「きわめて奇怪なのは〔これまで共産党に対しては何についても反対するとしてきた自由派と民運が〕文革認識についてだけはまったく分析力を失ってしまっていることである。ネット上では民運と自由派はこの問題については共産党と破れることのない固い同盟を永遠に結んだのであり、異口同音に『文革の災禍』を罵り、『文革造反派』を罵っているのだ」。
「『人民文革』は毛沢東の発動した文革運動のなかから異化として、それに対立しつつ発生•発展してきた人民自身の階級的利益を勝ち取り、防衛するための運動なのである」。\n 「つまるところ毛沢東の趣旨を奉じて造反した文革がなければ人民自身の趣旨による文革が異化することは不可能だった」。
「『人民文革』はそれを何と呼ぶこともできるが、しかしそれはいずれにせよ『毛沢東文革』の母胎の中から一歩一歩発育してきたものであるということは承認する必要がある。たとえその母胎が悪人でも土匪でも魔女でもその者がおまえの母胎であるのは事実なのだ」。
「文革は『奉旨造反』〔皇帝の命を受けての造反〕であったことが『人民文革』を永遠に否定する理由とされている。だがこのことがまさに毛沢東の偉大さを説明するものとなっているのだ」。
「古今を通じて、鄧小平、江沢民にいたるまで(さらに金日成、スターリンについては言わずとも)かって『命を発して』、統治されている人民を奮起させて自己の統治する国家機構に大規模に造反させた最高統治者があっただろうか?」。
「〔それは〕その動機が何であれ歴史の進歩にとって有利なことだった。彼は偉大だったのであり、われわれは彼を肯定するし、『奉旨造反』した中国人民を肯定する」。
「しかし毛沢東は同じく最高統治者として、階級的利益のぎりぎりの限度において、結局は自己の国家統治機構を徹底的に破壊することはできず、長く安定した人民民主の立憲制度を真に建設することはできなかった。こうして彼は最終的には自分の『命』を『奉じて』造反した人民を裏切り、逆に国家の統治機構を代表する官僚と結託して血腥い鎮圧を行なった。そしてしだいに『聖旨』〔皇帝の命〕を聴かなくなり、『越旨造反』〔命を越えて造反する〕した真の『人民文革』を鎮圧し去ったのである」。
「このことは歴史の進歩を妨げるものである。だからわれわれは毛沢東を批判し、否定し、共産党官僚に同調するものとしてではなく『文革徹底否定』をするのである。反対にわれわれは『越旨造反』した人民文革を肯定する。なぜならこの『人民文革』(私はそれを正式には四五〔一九七六年天安門事件〕から八九〔一九八九年天安門事件〕に到る時期からとする)が目標とするものこそ、中国に人民民主の立憲制度を創立することだからである」。
以上の王希哲の反論は妥当であろう。「奉旨造反」とは運動の継承の謂いであり、人々は先立つ運動に共鳴し影響を受けるなかで闘争に参加し、諸経験を通してときにそれから分岐し、自立していくのであり、「奉旨造反」だからダメという「自由主義」の批判は低水準のものである。
また王希哲の毛沢東論も妥当であり、「自由主義」と「新毛派」双方への有力な批判たりえている。

(b)八九世代との論争

当初、八九を自分らと一体のものと表明していた王希哲は八九世代の文革への強い拒否感、拒絶感にぶつかるなかで、その意味を考え、次第に八九世代批判に傾いていく。
「八九を経験してきた世代の一部の者たちは辛亥革命から文革中の造反に至るまで、ひいては四五、民主の壁運動に至るまで、すべてを抹殺したいようである。あたかもただ八九に至ってはじめて中国民主運動が開始されたかのようであり、あるいは五四〔一九一九年の五•四運動〕はそうだったと最低限認めるにしても、それは現代にあらためて再開されたかのようなのだ。八九以前に人々が民主事業のために奮闘した一切を抹殺、否定しなければ最も偉大な八九と六四〔一九八九年六月四日の天安門広場での衝突〕を突出させることができないのである」。
この八九世代の造反派批判は日本での「ポスト•モダン」世代の新左翼、全共闘批判に似て面白いのだが、彼らはそれを文革は「暴民文革」、「痞子運動」(無頼漢、ごろつきの運動)だったが自分らのは「知識分子を主とした清流運動」だったなどという次元で行なってしまっており(魯凡「八九民運と六六文革は同根でもなければ、兄弟相争う関係でもない」)、当局側の「お前たちの運動は文革の再現だ」という脅しに対して躍起となって「自分らのは文革とは違うのだ」と弁明することによって、自分らの運動水準を暴露してしまっている。(もっとも日本の「ポスト•モダン」世代と違って彼らは八九を起こしたのであったが)
王希哲の批判もそこを衝いている。文革は「奉旨造反」であり、自分らのような自立した運動でなかったという八九世代に対して、そんなことはない、胡耀邦、趙紫陽もまた毛沢東の文革精神のもとで育つことによって鄧小平的流れに対抗したのであり、彼らなくして八九もなかったのだと言う。
そして魯凡の主張とは異なり、「まさしくこの『清流』こそ現代中国の各種の運動のなかで最もごろつき的運動だった」のであり、文革のそのような否定の仕方にこそ八九世代と八九運動の限界、弱点があったのだと批判している。\n
(c)「新毛派」との論争

「新毛派」による王希哲批判の中心点は、王希哲の文革中の毛沢東と文革評価と現在の見解とでは一八〇度の転換があるではないか、また毛沢東を批判したり、評価したりどっちなのだ、文革は「毛沢東文革」唯一つであって、「人民文革」などというものはなかったのであり、そのような主張は文革評価において「文革徹底否定」論と妥協しようとするものだというものであった。
王希哲はこう言う。
 「希哲は今日の主要な敵は右派〔「文革徹底否定」論と「自由主義」〕だと認識している。だから右翼の攻撃に対するときは当然毛沢東文革の擁護すべき一面を強調する。だが一たび中央文革を『左派』として単純に全面肯定する『新左派』李憲源たちに対するや自分は彼らを批判して論駁する」。
内容的には先の「自由主義」への反論が同時に「新毛派」への反批判としてすべて通用するだろう。かっては毛沢東文革を評価していた王希哲がその後の諸過程をへてその認識を変えたことが何か問題であるかのように言う「新毛派」が政治のアマチュアでしかないことを示すだけである。

②「文革=ナチス」論、「三大暴君」論と「人民文革」論の狭間で――「自由主義」文革論の今日

文革終息後、自由派知識人層において文革総括のヘゲモニーを握ったのは徐友漁、秦暉、朱学勤等をイデオローグとする「自由主義」だった。彼らは、当局の「文革徹底否定」とは区別されるものとしてだが、基本的に文革否定であり、「人民文革」論についても萌芽的にそういう要素があったとしても量のみならず質的にも毛沢東の文革を越えるものではなかったという見解である。
注目すべき点は今日この流れの中から「文革=ナチス」論や「三大暴君」論が登場していることである。彼らは毛沢東的政治思想を根絶することが中国にとって必要不可欠であり、「新左派」、「新毛派」はもとより「人民文革」論についても毛沢東と文革の再評価への道を開くものとして警戒し、批判してきている。
だがここには先に見たように「民主主義と全体主義」という構図に絡め取られ、「ヒトラー、スターリン、毛沢東」を無媒介的な思想の型に抽象化して「全体主義」と見ることが何か鋭さであるかの錯覚があり、その結果は政治分析力の枯渇と現実批判の衰弱である。
たとえば「人民文革」論派の一人、武振栄はこの問題を言語的側面から取上げてこう書いている。
「もしわれわれが問題を分類するに当たって、民主的言語方式とは批判的言語方式であるととらえるとすれば、一九六六年、毛沢東は共産党に対する一貫した『歌功頌徳』〔功績を褒めそやし、徳行を讃える〕方式を放棄し、批判的方式を採用した。ヒトラーをこれに比べることが可能だろうか?」
そしてそれら「批判的言語方式」の一例を挙げている。
「一九六六年、毛沢東はつぎのような発言をしている。『人々に語らせよ、天が落ちて来ることはない』、〔•••〕『共産党は人民に白色テロルを行なっている』、『ブルジョア反動路線がなお人民を統治している』、『打倒閻魔、解放小鬼』、〔•••〕。よろしい、ヒトラーはどう語ったか?」
もっとも、「自由主義」の一人、張鶴慈は武振栄のこの発言を取上げてこう言う。
「〔それでは〕毛沢東は彭徳懐が語ることを許したか? 林昭が語ることを許したか? 張志新が語るのを許したか? 総じて幾千幾万のプロ独を敷かれた人々が語ることを許されたか?」。(林昭、張志新らは文革派勢力によって処刑)
張鶴慈の発言はいい気な毛沢東評価に冷や水をかけるものだが、その上でなおかつ「ヒトラー、毛沢東同質論」は世界認識の歪みと現実解読力の喪失を結果してしまうのだが、「自由主義」はそのことに無自覚である。
だがその反面、「改革•開放」の諸結果が顕著になるなかで彼らも当局への批判を強めている分、造反派世代や「新左派」の主張に押され気味で、これまでの主張がややぐらついている感もあり、最近では文革批判の最強硬派だった徐友漁がこう言うのである。
「一九九六年の文革発動三〇周年記念の際、『二つの文革』についての討論と論争がきわめて熱烈に行なわれたが、今年(二〇〇六年)もまた同じ論争がさらに激烈だった。〔•••〕劉国凱は『北京の春』〇六年一月号に『人民文革について――文革四〇周年に際して』を発表した。〔•••〕劉国凱の観点はきわめて大きな論争を引き起こした」。(徐友漁)
「一九九六年と二〇〇六年の二回の文革記念日が両方とも『二つの文革』をめぐるきわめて熱烈な論争を生み出したのは決して偶然ではなく、文革研究者の注目に値すべきことであった。とりわけ今年二〇〇六年の論点において文革の中の造反派の再評価、肯定的評価の声が出現したのは文革についての正確かつ深い認識にとって有意義なことであった。文革は確実に『再発見』、再評価のときを必要としている」。
「相対的に言って私自身は『一つの文革』に賛成である。その理由はもし別のもう一つの文革があったとすれば、それは第一の文革が造り出した『プロレタリア独裁』が暫時緩んだとき、『天下大乱』の情勢のもとで生み出されるささやかな現象、活動であって、それは第一の文革の副産物であり、規模、範囲、支配力においてそれと比べようがないものであった。もちろん事態を数量だけで比べるわけにはいかず、第二の文革が第一に比べて取るに足らないものであり、大多数の人々の眼に留まらないものであっても、歴史の発展から見たときその『意義』は巨大であり深遠なものなのである」。

③「脱政治化」論と「戦略的撤退」論への分岐――「新左派」文革論の今日

彼らは「文革徹底否定」論を批判すると共に「人民文革」論についても批判ないし不承認なのだが、そこには毛沢東と毛沢東文革の評価をめぐって大きく二つの傾向がある。
一つは文革を中国社会主義の疎外性を克服しようとした試みと見つつ、しかしその無批判的肯定でもなく「悲劇」と見る立場である。つまりその積極的側面を認めた上で、「走資派」的阻害要因のみならずそれ自身の欠陥によって多くの否定的事態を招来し、挫折したという見方である。
もう一つはそれは基本的に正しかったのであり、否定的事態や敗北は強大化した「走資派」勢力との対抗の中で起こったとするものである。だがここでも毛沢東と毛沢東文革の評価の問題が尾を引いており、とりわけ毛沢東の造反派弾圧の評価をめぐって微妙な意見の異同がある。

(a)「文革の理解なくして二〇世紀の特質をつかむことはできない」
――学者グループ(崔之元、汪暉等)

「文革にも合理的な要素があった」と述べて「自由主義」から猛烈にヒンシュクを買った彼らであったが、その多くは文革を直接経験していない世代であり、その文革評価も西欧の最新の学問的•思想的な分析用語を用いたグローバリズム的「新自由主義」批判の政治的文脈のものであった。
「自由主義」から中国と文革の現実を知らない机上の論とけなされた彼らの主張は、だがその分逆に旧来のパターン化した発展性のない文革論議を越えて新たな視角からそれをとらえ返し、将来へと思考を発展させ得る要素をもはらんでいた。
若干の軽さも含む崔之元の「制度創新と第二次思想解放」、「鞍鋼憲法とポスト•フォード主義」、「毛沢東文革理論の得失と『モダリティー』の再建」等の文章がその代表である。
そして汪睴の場合そのとらえ返し力は、中国近•現代史の独自な総括をふまえてさらにダイナミックであり、そこでは「文革徹底否定」と「告別革命」は今日資本主義と「社会主義」双方の世界に浸透しつつある「グローバリズム」イデオロギーの一環としての「脱政治」的思考によるものと把握されており、それからの脱却がこれからの課題だとされている。
「中国六〇年代への理解なくして二〇世紀への根本的理解を真に生み出すことは不可能である。そして中国六〇年代の最も特徴づける問題は疑いもなく文革である。〔•••〕しかし文革は脱政治的政治の形成の時期であったということができる。イタリアの社会学者ルッソは文革の終結はその開始後まもなく始まったと論じている」。
汪暉はこのように文革の理解なくして二〇世紀の特質をつかむことはできないと言ってのけているのだが、これはまたきわめて刺激的な発言である。
彼は「人民文革」論には直接には言及してはいず、造反派グループとの論争も今のところ直接には行なっていないのだが、「二〇〇六年の文革四〇周年について当局筋では何の動きもなく、そこではすべてが静まり返っていた。だが私はインターネットと民間での文革論議の変化、その質的変化に注目した」と言う。そしてこの四〇周年での話題は「人民文革」論だったのだから、汪睴は当然それに注目していたわけであり、おそらく毛沢東と「毛沢東文革」をめぐる自分らと「人民文革」論との評価の違いの意味を考えている筈である。

(b)「毛沢東の戦略的大撤退」――「新毛派」(李憲源、老田、蕭喜東等)

 毛沢東と文革は基本的に正しかったとする「新毛派」にとっての大きな難関は一九六八年以降の毛沢東による大規模な造反派弾圧であった。それは「七三布告」をはじめ、「一打三反」、「階級隊列の純潔化」、「五一六精査」と続く苛烈なものであり、文革期最大の死者数はこの時期のものであったといわれる。そしてそれこそが造反派世代が毛沢東から離反する決定的要因となったのである。
「新毛派」のイデオローグ老田は、それは一九六七年七月の「武漢反乱」をメルクマールとする反文革派勢力の優勢化、造反派のセクト主義による分裂等によって文革が非常な困難局面を迎えたなかで毛沢東が選択した「戦略的大撤退」だったという。
「造反派勢力は世論的には優勢であり、市民の広汎な支持を得ていたが、実際の勢力関係での劣勢を挽回し、打ち破ることはできず、それが毛沢東が『戦略的撤退』の準備を始めた双方の力関係だった」。
同じ「新毛派」の李憲源は当時反文革派勢力の崩れは顕著であり、毛沢東がここで「撤退」を行なったのは「誤り」(失誤)だったのではないのかという。
「武漢事件のあと、毛沢東が党内官僚たる実権階層と妥協•譲歩すべきであったか否か、『呼びかけに応じて』造反した人民を政治的に保護すべきであったか否か、このことが私と老田との左翼内部での文革分析方法の大きな分岐点であった。老田は当時の特定の歴史環境と党内の勢力関係が毛沢東に対してもいかなる偉大な政治人物でも絶対に抜け出せない客観的制約作用を及ぼすことを過分に強調しすぎたようであり、毛沢東が情勢判断とより良き政治方針選択で誤りを犯した可能性をまったく排除してしまった」。
しかし李憲源もまたそれは「人民文革」論派がいうような決定的裏切りではなく、「失誤」すなわち「政治的誤り」を含む「錯誤」とは区別される部分的ミスだとしており、だから彼らは毛沢東の造反派弾圧を批判する楊曦光らについてこう反批判する。
「楊曦光というこの愚か者はある政治局面の背後の力関係を見て取ることができず、〔毛沢東が彼らを支持しなかったことに恨みを抱き〕ただ自分たちの願望が実現できなかったことを言うだけで、対立勢力の力はどうなのかを見ることもせず、本隊が撤退するときになお自分らは前に進もうとする。この類の者たちが失敗しないとしたら不思議であり、最も笑うべきは失敗した後一〇年も経ってもまだ何が問題だったかを理解できないことである。思うにこの者たちは同様の局面に遭遇したら、やはり同じ誤りをおかすだろう」。(老田)
「そして王某〔王希哲〕たるおまえは、今になっても思想が未成熟な中学造反派のボス連中のように、なんと毛沢東が直面したこの種の客観的制約を見ぬくことができず、国家の大局の基本的安定が必要であり、また党内官僚階層の内心での文革への極端な憎悪、造反派憎悪の巨大な圧力への対応において、毛沢東が当時置かれた苦難に充ちた境遇とどうしようもない状況をまったく認識できていないのだ」。(李憲源)
階級闘争のある局面で「撤退」、それも「戦略的な」それもありうる。しかし造反派を政治的幼児扱いする老田、李憲源の政治水準もさして高いものではない。なぜなら「戦略的大撤退」というとき、その「戦略的」の意味は将来における戦略的大攻勢を予期する筈のものである。毛沢東がもし老田、李憲源のいうような意味で「戦略的大撤退」を考えていたとしたら、彼はその後の反転のための推進主体に充分注意しなければならなかった。だが毛沢東が行なったのは「撤退」の理由を説明することなく、造反派を敵勢力だとするデマゴギーのもとでの大規模な物理的殲滅だったのである。

二、「告別革命」論の展開――楊曦光と李沢厚•劉再復

先に(№2)ふれたように、一八九八年の戊辰変法のあと、二〇世紀に入って三度にわたる革命(辛亥革命、国民革命、そして中国革命)を行なってきた中国では、とりわけ一九四九年以降「革命」は疑いを許さない至高の価値であり、くり返し想起すべき栄光の事跡となった。
 そしてソ連•東欧での社会主義体制の崩壊以降もなお「社会主義」が保持されている。その中国で「告別革命」(革命よさらば)が唱えられ出したのだからことは並大抵の事ではなかった。
「告別革命」論とはひと言でいって、社会の根本的諸矛盾の解決に当たって「革命」という方法を想定することは今日では誤りであるという考えである。「革命」は問題の解決ではなく新たな、より深刻かつ悲惨な状況を招来するというのである。
 こういう「革命」批判の仕方は新しいものではなくこれまで何度もなされてきた。だが文革以降の中国で、またソ連•東欧崩壊後の世界でなされている「革命」批判はその種の常套的な物言いとは異なっている感がある。それはいわゆる「反共イデオロギー」という次元を越えた政治論的、思想論的な深みからする「革命」の総括となっているからである。
この「告別革命」という言葉が印象的に世に伝わったのは、李沢厚、劉再復『告別革命――二〇世紀の中国をふり返る』(天地図書、一九九五)によってである。だが同じ趣旨での革命批判をそれに先んじて行なったのは楊曦光であった。あるインタビュー記事の中で彼はこう述べている。
 「李沢厚と劉再復の対話『告別革命』は『八九風波』〔天安門事件〕のあとであり、彼らは海外で完成したのだが、私が大体のところ同趣旨の観点を表明したのは一九八七年であった」。(向継東「革命と反革命およびその他」一九九九)
 それはどのようなものであったか。

1.楊曦光「中国政治随想録」――「マルクス主義政治理論の浅薄さ」

この楊曦光の言う一九八七年の見解とは「中国政治随想録」という文章のことであった。(なお文革終以降、楊曦光は楊小凱を名乗っているが、ここではかっての名前にした)\nこれはその後の「人民文革」論派を含む海外民運や「自由主義」が共通して掲げる「民主的な立憲政治」展望にとって一つのテーゼ的重要性を持つ興味深い文章である。それを見る前に彼自身の言葉による要約を見ておこう。「革命」について彼は端的にこう言う。
「たとえばある人がもし今日武昌蜂起型の民主革命が起きたとしたらあなたはどうするか?と尋ねたら私の答えはこうである。『私は直ちに中国を遥か遠く離れ、革命中の中国から身を隠すだろう』
私自身は文革後の反革命気分の代表者である。私は監獄のなかで多くの良き友と親交を結んだが、彼らは一九四九年革命の被害者だった。私は彼らが本当に愛したが、共産党の革命はこれら高尚な人たちを亡霊に変えてしまった。私自身、文革のなかで一家離散し肉親が死んだ。母は迫害されて自殺しており、私は文革が何であったかを知っている。私はいわゆる『偉大な人民』が革命のなかでいかなる行為をなしたかを知っている。私は革命が政敵を迫害する感情によって全民族を毒したことを知っているが、あの当時この感情を誰もがみな抑制できなかったのであり、そしてこの感情こそが専制制度の基礎だったのだ」。
 この楊曦光「反革命理論」を見ていく上で注意すべき点を先に述べておこう。
 まず第一は彼がここで言っている「革命」とは「革命」一般というより多分
に中国固有の「改朝換代」(王朝の交代)型「革命」観についてであり、古来中国で古い専制が倒れ後、新たな専制が生まれるという循環がくり替えされてきたのである。近•現代での中国の革命も総じてそういうものだったというのが楊曦光の主張である。
 第二に彼が「革命はその暴力的手段によって暴力的体制を不可避とした」、「革命が民主を押しとどめた」というとき、そこにはのちに見るように開かれた「政治空間」への強い希求があったことである。事実、楊曦光は別の文章で「政治空間」について述べている。
 「歴史の経験がわれわれに告げているのは、政治的迫害によって国民党員たちの政治空間を剥奪したことによって、迫害者自身の政治空間をもまた狭めてしまったということである」。
だから楊曦光が中国での革命は阻止されねばならないというとき、それは文革終息後の共産党統治の抑圧性を是認したものではなく、「開かれた政治空間」を抹殺した二〇世紀共産党統治への批判は前提であり、のみならずそれに勝利した資本主義国家の抑圧性をもつらぬくものとなっている。
第三に楊曦光はその後自らの「反革命理論」をある核心において訂正しており、先の一九九九年のインタビューで「現在私の観点は〔一九八七年当時とは〕大いに異なっている」と述べていることである。
「現在、私はこの観点を修正しようと考えている。というのは革命理論にもその合理性があるからだ。〔•••〕革命は総じて統治者に対する一種の威嚇である。この威嚇がなければ政府の人民への奉仕の承認も信じがたい。威嚇があってはじめてその行為も物事の筋道から大きく外れることができなくなるからだ」。
楊曦光はここで「人民の革命権」を再確認したのである。だから彼をここ「告別革命」論の章の冒頭に置くのは不適当かも知れない。だがその「改朝換代」型革命からの「告別」論は二〇世紀革命の総括の一端として不可欠な論点なのであり、それはまた「告別革命」論のそもそもの趣旨でもあるわけだからこのままにしておこう。
さて「中国政治随想録」である。彼は先のインタビューでこの文章の趣旨をこう述べていた。
「あの文章のなかで私はロックの思想からきわめて大きな影響を受けたと書いている。ロックの論理によれば、革命が覆そうとするのは一人の暴君だが、その暴君をさらに上回る集権的権力がなければ打ち倒すことはできない。
一たん暴君が倒されるや、革命のなかで形成された権威を誰もまた制御できず、そして新たな暴君が生まれ、それがまた革命を促すことになる。これがすなわち『革命が暴君を生み出し、暴君が革命を生み出す』という改朝換代〔王朝の交代〕の論理である。
私には二つの基本的観点がある。一つは革命を手段として専制を覆すことはできないということであり、もう一つは革命は民主化過程を遅らせるということである。さらに言えば現代の条件のもとでは、もし国家間の戦争がなければ、上層階級内部の大規模な衝突、あるいはそれに類似した代理人同士の戦争といった局面がなければ、革命という手段をもって一つの専制政体を覆す企ての成功の確率はゼロに等しい。
言いかえれば私は革命を主張しないということである。なぜなら革命は民主化過程にとって無益だからであり、まさに一九四九年の革命は中国の民主化を数世代にわたって遅らせたのだが、それはロシア革命がソ連の民主化を挫折させたのと同じだった。だから革命を阻止することは今日の中国の改革にとって大いに重大な現実的意義を持っているのだ」。
楊曦光のこれらの主張の背景には言うまでもなく文革の経験、その総括があったわけだが、しかしそれだけでなくそれはまた文革終息以降の鄧小平「改革•開放」の圧倒的な進展と一九八九年天安門事件、さらにソ連•東欧圏の崩壊という国際情勢の展開を受けたものでもあった。
ところでここで楊曦光が依拠するロックの革命批判の論理はわれわれにとってすでにおなじみの「論理」であり、ことさら何ごとかを触発するものではない。だが楊曦光が言うときそれは新たな喚起力を持つものとなる。というのも楊曦光のそのようなロック受容の背後にあったのは文革のなかで経験された権力と大衆の赤裸々な姿、獄中での卓越した同房者からの毛沢東政治に関する「政治教育」だったからである。
一〇年の獄中で彼は多くの政治犯と接しているが、ここでのテーマとの関連では二人の人物が重要である。一人は陳光第、この湖南大学数学科の教師から彼は『資本論』を貸し与えられ、数学の手ほどきを受け、のちに経済学者となるモメントをつかんでいる。
もう一人は劉鳳祥、『湖南日報』編集者で一九五七年の「右派」、楊曦光はこの卓越した人物から共産党統治下の中国現代政治をどう見るか、その変革の見通しは何か、毛沢東と文革の評価などをめぐって大きな影響を受けている。彼を「崇敬し、心底敬愛した」という楊曦光は薄暗い獄舎での声を落とした会話、将棋盤に顔を落しながらの質疑を「私にとって永遠に忘れ難い現代中国政治史の講義であった」という。因みにこの二人は文革派勢力によって死刑に処せられている。
満期出獄後アメリカで「エコノメトリックス」を学んでいるという情報によってわれわれに多くの感慨を催させた楊曦光だったが、しかしこの「中国政治随想録」を見れば決して別の世界に行ってしまったわけではなく、「中国はどこへ行く?」という問いを新たな形で持続していた。この文章はその後の「人民文革」論派さらには海外民運派の政治構想に大きな影響を与えており、少し詳しく見ておこう。\n
(1)「改朝換代」型革命の批判

一〇年にわたる獄中での文革と「湖南省無聯」の総括作業から彼がたどり着いたのはコミューン革命そのものの対象化と批判だった。
 「私は文革のときに書いた『中国はどこへ行く?』のなかで、公務員の直接選挙、常備軍の取消し、高賃金の取消し、等々を含む『パリ•コミューン』式民主を推賞した。そしてこの種の民主を実現するには逆に激烈な革命的手段、すなわち中国の『新特権階級の打倒、旧国家機関の破壊』が必要だとした。
このため私は牢獄に一〇年入ることになった。そこで私は多くの歴史書を読んだのだが、ヨーロッパの政治史を理解したいと思って始めるなかでつまるところ民主政治とは何か、それをどう生み出すのかを考えるに至った。その過程で私はジョン•ロックの思想にきわめて大きな影響を受けた」。
「私は早くからの官製イデオロギーの批判者だったが、革命的民主主義と現代民主主義政治はまったく別のもの、ひいては対立的なものだということを知ったのはロックの思想を摂取してからであった。ロックの思想はイギリス革命の産物であり、クロムウェルの独裁はその革命の結果であったが、それは旧王朝よりさらに悪いものであった」。
以上の論述には若干のコメントが必要である。それはそこでは「『パリ•コミューン』式民主」が「革命的民主主義」あるいは中国共産党の文脈では「人民民主主義」とイコールのものと認識されていることである。
だがマルクス「パリ•コミューン」論、そしてローザ「社会主義的民主主義」論とレーニン「人民民主主義」論とは開かれた政治空間の評価においてイコールではなかった。楊曦光の「反革命理論」ではこの問題が未分化であるといえよう。
だが中国共産党が理解した「パリ•コミューン」式民主とは実際には「人民民主主義」のことだったのだから、ここでの楊曦光の主張は間違っていたわけではない。
 そしてロックの「革命が暴君を生み、暴君が革命を生む」という改朝換代〔王朝の交代〕の論理に深く共鳴する彼は「民主を追求する第一の主旨は暴君を倒すことにあるのではなく、いかにしてそれが改朝換代となってしまうこと、『革命的民主主義』の陥穽に堕ち込むことを避けるかということにある」のだという。
 「マルクス主義政治理論の浅薄なのは、それがロックとモンテスキューの理論から後退した革命的民主主義理論を採っていることであり、この理論は中国式の改朝換代を越えるものではないのである。この理論の核心は誰が権力を握るか(いわゆる国体問題、すなわちプロレタリア独裁なのかブルジョア独裁なのかの問題)であって、政体それ自体の真の創新〔創造〕ではないのである。
 だがロックとモンテスキューの理論の核心はまさに『支配者(制御者)』そのものを制御するメカニズムを考案することであった。社会主義政治制度の失敗はマルクス主義政治学の浅薄さと『支配者(制御者)』の制御を欠いた設計思想を基礎にしたことにあった。だから社会主義政治制度の失敗は実践問題なのではなく、政治設計思想の失敗なのである」。
 この指摘はきわめて重要である。というのはここで楊曦光が「ロックとモンテスキューの理論の核心」として把握している問題は今日にとらえ返せば「開かれた政治空間」の問題である。それより後退した「人民民主主義」を択び採ることによって「開かれた政治空間」の「創新」、制度的開拓をなしえなかった「浅薄さ」を衝かれたこれまでのすべてのマルクス主義政治理論はこれに何ごとかを答えなければならない。
 「たとえて言えば、われわれは人間を一半は天使、一半は野獣と仮定できる。他人を征服する、人に損害を与え自分が利を得るという悪は『暴君』にも『人民』にも同じようにある。暴君が打倒されれば『人民』はただちに異なる党派に分裂し、互いに闘争する。暴君を倒していいのに、なぜ敵対党派を倒していけないのか。『人民』は暴君が用いるやり方で相互に殺し合い、それは新たな暴君が登場するまで続く。
中国の毎回の改朝換代はみなそうした過程をたどっている。大匪賊(皇帝)を打倒するや、無数の小匪賊が数えきれないほど現れて相互に殺し合い、もう一人の大匪賊(新皇帝)の登場を残すだけである。最後に人民は多数の小匪賊より一人の大匪賊の方がまだましだと思い知らされる。こうして新たな王朝は一定の期間強固に存続できることになる。〔•••••〕この種の革命が『民主』を生み出すことができると信じるのはただ政治的無知だけである」。
このように楊曦光は「改朝換代」型革命の根拠、さらに革命権力の抑圧権力への転化を人性論的に説明するのだが、しかしそれだけでは不充分だろう。革命権力が何を媒介として抑圧権力へ変質、退化するのかが、論理的、現実的に解明されていかなくてはならない。

(2)「文革は反革命気分を培養してしまった」

楊曦光によれば一九六〇年代末期の中国は暗い政治的雰囲気に覆われていたという。一九六八年以降の造反派弾圧がもたらしたものであった。
この時期、民衆の間に共産党統治への反発が高まり、そのための党派形成の地下的な動きがあちこちで起こっている。一部の者たちはボリビアでのゲバラの闘いに注目していたという。だがゲバラは敗北し、活動家たちに現代的条件のもとでの武装蜂起や武装闘争の不可能性を思い知らせている。
 これらの動きを注視していた共産党は大規模な弾圧に移っている。「一打三反」、「階級隊列の純潔化」、「五一六精査」がそれである。これによって「反右派闘争」のなかから登場した優れた政治指導者や「出身論」を書いた遇羅克らの思想家、先端的な活動家層が根こそぎ抹殺されている。
「革命活動に従事していた一群の優秀な職業政治家が政治的害悪と見なされ銃殺されたのである。今回の大規模な鎮圧活動に私の心は震撼させられた」と楊曦光は書いている。彼はリアルにこう言う。
「原則的に言って、現代的条件のもとでは、もし国と国との戦争、上層階級内部での大規模な衝突〔•••〕がなければ、革命的手段をもって一つの政体を打倒する成功率はほぼゼロに等しい。文革のなかで一群の非常に優秀な知識分子が政党活動に参加したのは、文革のような上層内部での大規模な衝突によって革命の機会が与えられるか否かがまだ少しハッキリしなかったことによっている」。
 「だがこれらの知識分子はのちに文革は人民のなかに強烈な反革命的気分を培養したことを認識することになる。文革は政権を換える条件を創造するに到らず、逆に政権を換えるのを防止し、共産党政権を強固にするという予想に反する作用を生じさせたのである。それはまた人民が大躍進以来蓄積してきた専制政体への不満を文革のなかで吐き出したということでもあった」。
 「文革のなかで『人民』がその匪賊的な一面を暴露したのは疑い得ない事実である。毛沢東が短期的に許可したまやかしの政党自由化のもとで、人々はワッと立ち上がるや、互いに殺し合ったのである。人々は一個の大匪賊の方が多数の小匪賊よりまだましだと了解した」。
 「革命が民主化過程を遅らせるのは、まさしく一九四九年の革命が中国民主化過程を遅らせ、ロシア革命がソ連の民主化過程の目途が立たないまでにしたのとまったく同じであった。だから革命を防止することは今日の中国の改革にとって依然として現実的かつ重大な政治問題なのである」。
 ここで楊曦光は文革が「革命情勢」(レーニン)論的に未成熟だったと述べているわけだが、この言い方では一九六八年以降の大弾圧が反文革派たる「走資派」のよってではなく、毛沢東と文革勢力によるものだったという錯綜した問題が曖昧になってしまっている。
 楊曦光はこの問題を重々知っていたわけだから、そのことは毛沢東文革の根本的問題性、すなわち「文革は政権を換える条件を創造するに到らず、逆に政権を換えるのを防止し、共産党政権を強固にするという予想に反する作用を生じさせた」という認識の中に含まれているのかも知れない。
 そして重要なことはそのことと共に文革における造反派を含む「人民」そのものの「匪賊的な一面の暴露」が民衆のなかに「強烈な反革命的気分を培養した」と反省的に総括されていることである。楊曦光は別のところで「『文革徹底否定』論にはかなりの民意の基礎があったのだ」と述べていた。
 
(3)「マルクス主義と儒教文化の結合が生み出した奇怪な文化現象」

 以下の「中国政治の特質」論、あるいは共産党統治論はこの文章の圧巻の一つである。
 「中国政治の一つの重要な特質は王朝の周期があることである。〔•••〕王朝の周期という現象はヨーロッパでははっきりあるわけではなく、そこでは下からの農民蜂起による王朝の更迭はきわめて少ない。〔•••〕
たとえばアメリカ人が政党の自由を論じるとき、それによって改朝換代を連想する人はいない。だが中国で成立した大多数の政治組織はみな改朝換代を目標としている。(〔•••〕革命あるいは解放等々と自称したとしてもである) 農民蜂起軍もしかり、国民党もしかり、共産党もまたしかり。中国政治において成功した政党はすべて改朝換代党(革命党)なのであって、現代政治的な意味での政党ではないのである。だから中国人が政党の自由について述べるやただちに改朝換代を想起するのである」。
つまり文革における造反派の奪権論もまた「権力再分配」という改朝換代的発想を色濃く残しており、実権派との「武闘」が内部に差し向けられたとき「派別闘争」(党派闘争)」もまた激烈なものとなったのだが、ここでのテーマはまず共産党統治の特質である。
 「とりわけ徹底的な改朝換代に成功した経過を持つ共産党の統治は残酷きわまる手段であらゆる政党活動を鎮圧してきたのであり(中心人物は一五年の懲役~死刑)、だから政党の自由に主張と改朝換代との関連に特別敏感である。
私個人が中国の政治犯を観察したところでは、一九四九年以降の大陸の絶大多数の秘密政党活動は親ソ的な『労働党』、親西洋的な『民主党』、親台湾的な『反共救国軍』、儒家を信ずる『大同党』、それに農民結社的性格の『一貫道』にしてもみな改朝換代を目標としていた。
 そして共産党の政治的安定とはすべてこの種の政党活動への残酷な鎮圧、すなわち鎮反、粛反、反右、階級隊列の整頓、一打三反、清査『五一六』等に依拠したものなのである。
この種の政党活動の鎮圧に依拠して過ごして来た政権が政党活動の禁止を解き、民主政体となるなど子供を笑わすホラ話しではないのか?もしそうでないならこのように残酷に政党活動を鎮圧してきた共産党がなお悪事を働き続け、崩壊しないことがあるだろうか?(一九五九年餓死二〇〇〇万、『文革』がまた中国人民に塗炭の苦しみを舐めさせたのだ)
どの新王朝もそうであったように共産党の開国も残酷な鎮圧を基礎としていたのであり、仁政は補助だったが、その仁政たるや哀れなほどちょっぴりだったのだ」。
 「国民党は歴史的には随朝に極めて似ていた。それは共産党に比べて現代型政党に似ており、その文化水準は高かったが戦争能力はあまり高くなかった。
 国民党の革命は徹底的な改朝換代ではなく、幾分現代ブルジョア革命の趣きがあった。それに対し共産党の統治は明朝にきわめて似ており、徹底的な改朝換代であって、旧社会の基盤であった地方の有力な地主や退職官吏は根こそぎ亡ぼされ地獄のどん底に叩き込まれたのである。毎回の政治運動をへて、とりわけ人があまり注意しない一九五八年の反右派運動を通して、地方の有力者や中産階級はその社会的地位が完全になくなり、奴隷より哀れな境遇になった。
〔•••〕エンゲルスとウィットフォーゲルの見解に反してこの種のアジア的専制は公共管理機構(水利のごとき)の基礎の上に建立されているのではなく、一個の大匪賊による無数の小匪賊の支配、すなわち支配するために他人を征服するという悪を基礎として建立されているのである」。
 「中国政治のもう一つの特質はそれが非常な権威主義であって全体主義〔極権主義〕ではないことであった。だが共産党統治の特質は権威主義ではなく全体主義である。共産主義の集権は人類の歴史のなかで未曽有のものであった。中国の今日の人口流動への抑制は歴史に例がないだけでなく、『大兄』たるソ連よりはるかに厳しいものであった。だから中国の、歴史に前例がなく傍証のない最暗黒の政治現象は、マルクス主義と儒教文化の結合が生み出した奇怪な文化現象というほかなく、この種の文化現象の惰性と暗黒は決して軽視できないのである」。
 以上のように言う楊曦光はだがそれを中国における「政治」の宿命とは見ておらず、何より文革そのものがその構造を打ち破ったのだという。
 「しかし以上の奇異な政治構造は決して永遠不変のものではない。文革においては広大な市民が迫害を受けただけでなく、中国共産党の一群の政治指導者たちも傷害を受けている。それゆえのちにこれらの政治家が〔•••〕再び権力の中心に上ったとき彼らは以前の政治構造をことさらに打破したのである。だから鄧小平復活後の十年、われわれは中国の政治空間が多元的傾向を帯びたことを見てとることができる。〔•••〕私が思うに鄧小平復活後の創造的な新たな政治構造こそ中国現代史に対する文革の最大の影響なのである」。
 見られるようにここでも「多元的政治空間」がものを見ていく指標となっており、鄧小平政治への評価と批判もそれを基軸としている。

(4) イギリス名誉革命――「政治設計」の金字塔

 ここもまたこの文章の圧巻である。楊曦光がその「開かれた政治空間」論の元イメージを得たのはイギリス名誉革命の研究を通してであった。彼が感嘆したのはこの革命の担い手たちが激烈な内乱の中から専制を阻止し防ぐ「『制御者』制御の仕組み」を探し出すという「政治設計」に真剣に取り組み、ついにそれを見つけ出したことであった。制度の構築に向けた政治的構想力が革命家たちに問われたというのである。
「イギリス名誉革命(実際にはクーデターだったが)は、おおよそのところ
私にとってもっとも完璧な政治設計であった。それは長期にわたる伝統的な専制国家において、革命と専制の循環構造を抜け出し、『制御者』を有効に制御する方法を探し出したのである」。
 その名誉革命においてとりわけ楊曦光が感嘆したのはクロムウェル•ピューリタン革命への反動として復古した国王権力を制限した貴族たちの判断力であった。彼らはオランダからメアリとその夫を招聘し、その軍事力をもってジェームス二世を亡命させる一方、国内基盤のない王に権利章典と議会の権限を認めさせたのである。楊曦光はこれを知って「こらえきれず机を叩いて賛嘆の声を上げた」という。
 「これはおそらく専制制度を改革することを通して制度を創造〔創新〕し、
革命と専制の循環から抜け出し、長く安定した統治へと向かう最も見事な事例であった」。
「民主政体における『制御者』制御の仕組みについていえばそれはごく簡単なものである。すなわち人はみな生来弱点を持っており、まったく非のうちどころのない制御者など存在しない以上、なすべきことは『一半は天使、一半は野獣』の人々を平等に競争させることである。
つまり三つの平等に競争する野獣(二党制あるいは三権分立)の存在が民主なのであり、一人の『聖人』だけが存在するのは専制政体なのである。この道理はきわめて簡単なのだが、それを実行するのは容易ではない。なぜなら人はみな征服本能を持ち、相手を打倒しようと考えるからである。
いかにして彼らの平和共存、平等な競争を実現できるか? 唯一の方法は歴史に学んで各派間の平衡、誰もが誰かを食い尽くすことのできない局面を生み出すことである。それがすなわち二つの魔物が平等に競争する(民主)の条件なのだ」。
 「だから民主主義者についていえば、実際に用いるべき知略(謀略)はできるだけ上層各派の均衡を維持することであり、たとえば共産党が国民党より大きい場合は国民党を支持し、造反派と保守派の中のある一派がきわめて優勢な場合はそれへの別の敵対派を支持することである。一九四九年に民主党派が犯した誤りは共産党が強大なとき国民党を支持しなかったことである。実際に当時ある一人の聡明な民主党派の指導者はこのことを見ぬいており、共産党一辺倒は専制制度を生み出す条件となることを認識していた。だが惜しむらくは民主制度の実際は当時大多数の中国知識人に認識されておらず、彼らは民主とは一個の聖人(共産党)によるものであり、二つの魔物(国共共存)によるものではないと思っていた。中国知識人の好んで強権に追随し、弱者を蔑視する伝統もまた一九四九年一方のみが制覇してしまったことに責任があるのだ」。
 知略の原語は「謀略」である。中国語の「謀略」も「策略」もそこには悪巧み的な意味はないという。頭を絞って「平等な競争」の方策を考え出せというのである。日本の新左翼は開かれた政治空間のもとで闘争と共同を行なうのではなく、あるいはそれを可能とする制度条件の「創新」に頭を使うのではなく、「征服本能を持ち、相手を打倒しようと」する「謀略」(日本的語意での)に専念してきてしまったわけである。

(5)「共和主義」への共感

 興味深いのは、以上のような考察のなかから楊曦光が「共和主義」に強い共感を示していることである。一九八〇年代後半以降、アメリカをはじめ世界で共和主義への関心が急速に高まったといわれるが、そこには同時期での東欧、ソ連の崩壊のもとでの共産主義的政治思想への幻滅と、他方勝利者として登場した「自由主義」への批判があったのだろう。
 楊曦光の場合、中国政治への批判はあらゆる政党活動の鎮圧に依拠した共産党統治の残酷さに対するものであったが、そこには「人民」が文革の中で示した「匪賊的な一面」への批判も含まれており、それはまさしく「専制政治」と「衆愚政治」的人民民主主義を共に批判する共和主義への共感へと連なるものであった。
「以前われわれはただ民主を強調してきたが,実際には民主、自由、共和、立憲政治(「憲政」)という四つのものには違いがあった。比喩的にいえば民主と自由は緊張関係にある。自由は少数派を保護せよなのだが、民主は少数派は多数派に服従せよなのであり、だから自由主義は民主を信任しない。なぜなら民主は『多数派の暴政』を引き起こす可能性があるからである。
人類の歴史においてわれわれはこのような残酷な事実を見出すのに事欠かないのである。少数は多数に服従せよの結果は多数派による少数派の迫害となる。 
共和は地方の権力は中央から来るのではなく独立したものあることによって、地方の権力と中央権力との平衡関係〔制衡〕を作り出す」。(前傾インタビュー)
 「中国人は共和についての理解がきわめて少なく、民主について論ずることがきわめて多く、自由について論ずることはきわめて少なかった」。
〔「五四のスローガンは民主、科学、自由と立憲政治だったが、あなたの考えでは現在は自由が第一位に置かれるべきなのだろうか?」という質問に対して〕
 「自由は科学の前に置かれなくてはならず、立憲政治と共和は民主の前に置かれなくてはならない。私は科学崇拝はすべきではなく、今日中国が直面する多くの問題は民主と科学崇拝に関連しているとすら思っている。中国はきわめて多く回り道をしてきたが、それは五四に反したからではなく、五四の結果なのだ。もし当時自由を強調し、立憲政治と共和を強調していたら情況は違っていただろう。
共和と民主は同じものではないのだ。共和は権力上層の均衡を重視するのであり、民主は下層の政治参加を重視するのだが、両者を比較すれば共和は民主よりさらに重要である」。
 先にふれたがここで楊曦光が警戒している「民主」とは「衆愚政治」さらには「プロレタリア民主主義」についてであることに留意すべきだろう。

(6)「私有化」の意義、民主尚早論

楊曦光は「改朝換代」型革命を防止し、多元主義的政治空間を維持するためには「私的所有」の回復による中産階級の形成が必要であり、それを抜きにした民主化は「多数暴政」の「革命的民主」となってしまうとくり返し述べている。
この辺は当然論議を呼ぶところだが、楊曦光の場合それは「国有化工業制度はまさしく専制政治に適合するのであり、国有化の条件下では『大民主』は不可能である」という認識のもとでの主張でありことに注意しよう。それに「私的所有」の問題はかのマルクス「個体的所有の再建」論もあって解決済みではないわけであり、ましてわれわれが「開かれた政治空間」論をめぐってなにごとか解明しえてきているわけではまったくないのである。
「第一に革命を手段として民主を追求することをしてはならず、民主の第一番目の条件は革命と専制の循環を避けることなのだが、革命そのものがこの循環を促成してしまうのである。
第二に発達した私有財産制度がないときに民主政治を語ることは相当危険なことであり、それは動乱と改朝換代を招来しかねないだろう。
第三に中国共産党の統治の発展変化が民主政治の時代に到達することは根本的にありえない。共産党はまだその開国期の後期にあるのであって、その基本的特徴は政党活動の鎮圧と(政党は民主の必要条件であるのに)政治の独占なのである。
民主政治改革を討論するのはまだまだ早過ぎるのだが、しかし多くの特殊な事件、たとえば『文革』、台湾問題、鄧小平の復辟、ソ連式制度の危機等々が政治改革(民主改革ではなく)に動力装置を提供している。
中国は極端な専制政治から権威政治への過渡の可能性に直面しており、台湾がまさに権威政治から民主政治へと進みつつあることにまだはるかに及ばないがソ連型の政治発展方式から離脱する確率はかなり高いのである」。
「大陸においては政府が全社会を呑み込んでしまっており、政府から独立した中産階級は存在しないか、気息奄々である。こうした情況下で民主を語るのは贅沢かつきわめて危険である。なぜならそのための社会構造の基礎がまったくないのに世論をごまかし、うまくいくと粉飾して危険について語らないからである。もし本当に民主を追求すれば、それはうまくいかず動乱と改朝換代を引き出すだろう。独立した中産階級が存在しないなら、『人民』は建設性を持つことなく、きわめて危険な改朝換代勢力と化すのである」。

(7)台湾問題、文革、鄧小平復辟の意義

 以下の認識には楊曦光の柔軟かつ政治的射程の長い分析力が示されているといえよう。 
「中国が民主化に向かう過程において台湾問題が最も重要な要因の一つとなっている。それは台湾が急速に民主政体に向かっており、中華民族という古い歴史を持つ民族が初めて自己の政党政治を持つことを意味するということだけでなく、台湾の存在が中国の政治構造を一元化することを不可能にしていることによる。〔•••〕もし台湾問題がなかったら一国両制の政策はありえず、共産党もまた今日このような開明政策をとることはなかった」。
 「文革が中国にソ連型の発展方式をくり返すことを不可能にしたことが別の決定的な要因となっている。権力上層についていえば文革は鄧小平の復辟をもたらした。これは社会主義国家の政治史のなかではごく稀なことであった。〔•••〕鄧小平の復辟は初めて『反党分子』が再び権力の座についたのであり、権力移動はそれまでの中枢内部の分裂としてのみあるという政治パターンを打破したのである」。
 以上のような楊曦光「反革命理論」については中国での革命は必ず「改朝換代」型になると言えるのか、等の批判もある。しかしそれが単なる「革命」是か否か論ではない、文革総括と「開かれた政治空間」をもっての「中国政治の特質」論、共産党統治の批判、そして「共和主義」の評価を含む立憲政治の提唱などの政治的構想力によって、今では「人民文革」論派、海外民運派などの造反派世代にも大きな影響を与えるものとなっていることを見ておかなくてはならないだろう。\n 
2.李沢厚、劉再復「告別革命」論

李沢厚、劉再復の対話録(『告別革命――回望二十世紀中国』天地図書、一九九五)の表題に用いられたこの言葉は以後人口に膾炙し、それへの賛否両論がインターネット論壇を賑わしている。

(1)「革命と政治がいっさいを圧倒」した二〇世紀

「七〇年代末から、私は何度も述べてきたのだが、国内や国外での影響の大きかった革命について、フランス革命を含めてロシア革命、辛亥革命等々をあらためて再認識、研究、分析、評価をすべきであり、革命方式の弊害、それが社会にもたらす各種の破壊を理性的に分析し、諒解する必要がある」。(李沢厚)
「わが国の二〇世紀は革命と政治がいっさいを圧倒し、他のすべてを排斥し、すべてに浸透し、いっさいを主宰すらした一世紀であった。そしてこの種の政治はまた『一つが他の一つを食い尽くす』、『生きるか死ぬか』の調和の余地が微塵もない政治であった。この種の革命政治は当然にも社会に急進的な雰囲気を充満させ、そのなかで人々の生はきわめて緊張していた」。(同上)
「二〇世紀のはじめ、康有為、梁啓超は革命派と論争したが、今日この二人の主張が誤りだったとは簡単には言えないのである。私は康有為のあの『君主立憲』、『虚君共和』の思想は当時にあってはきわめて道理があったと思っている。この大論争は見直されるべきではないか。二〇世紀の末になってようやくこの世紀の初頭での論争の見直しを論ずるのはまさに悲痛かつ滑稽なことである」。(同上)
「私はイギリス型の改良に賛成であり、フランス型の嵐のごとき大革命に反対する。この種の革命方式が支払う代価はあまりに大きすぎるからである」。(同上)
「われわれのこの世紀は革命が絶えることなく、その革命のために各種の厖大な理論体系を導入し、加えて毛沢東もまた一つの思想、イデオロギーを創造した。これらのイデオロギー系統は本来道を照らすためのものであったが、しかし何故かついには国家は人々を安心して暮させず、おどおどさせるためのものとなった。ここには巨大な陥穽、すなわち階級闘争を要とする国家イデオロギーの陥穽がある。〔•••〕幾十年にわたる階級闘争にわれわれは疲れ切り、精力を使い果たし、わが民族はまさに疲労困憊した民族となってしまった。
世紀末となった今日、厖大な理論体系の他に簡単明瞭な常識を再発見することが重要である。たとえば人類は生存するためにまず食べなければならないということ、すなわち生産力を発展させる必要があるという考えである。鄧小平講話の意義はこのことを述べていることである。この常識が往々『真理体系』より重要なのだ」。(劉再復)

(2)「告別革命」ではなく「革命を軽々しく主張しない」という選択

それにしてもこの種の「告別革命」というような論議についてどう考えたらいいのか。それを検討に値せぬ「背教者」の言として済ますことのできない経過をわれわれが経てきてしまっているのは事実であり、いかなる「革命論」も一度はこの「告別革命」論に自らを晒してみてそれに耐えうるかを問われているのは確かなのだろう。
もっとも「革命」是か非か、「革命」をやるのかやらないのかという議論が少し変なのも事実である。「革命」についてローザが「わたしはかって在り、いま在り、こんごも在る」と書いたのは一九一九年一月、彼女の虐殺とドイツ革命敗北の前夜であったが、「革命」について考えるときこの把握が大前提だからである。
すべての革命あるいは大政治変動期の後には運動への反省と「告別革命」の声が起こっている。たとえばロシアの一九〇五年革命敗北の後がまさにそうであった。スターリン党史(『ソ同盟共産党小史』国民文庫)がつぎのように描き出す時期である。
「一九〇五年の革命の敗北は、革命の同伴者のあいだに分解と堕落をうみだした。インテリゲンツィアのあいだには堕落とデカダン主義がとくにつよまった。〔•••〕反革命の攻勢はイデオロギー戦線でもおこなわれた。
大ぜいの流行著述家が出現し、マルクス主義を『批判し』、『やっつけ』、革命を侮辱し、愚弄し、裏切行為を礼賛し、『個性の崇拝』にかこつけて性的放肆を礼賛した。哲学の領域ではマルクス主義を『批判』し修正しようとする企てがつよまり、また一見『科学的な』論拠にかくれたありとあらゆる宗教的思潮があらわれた。マルクス主義の『批判』は一つの流行となった」。
中国における今日の類似した思想状況を念頭に置きつつ、金雁(秦暉夫人)がこの時期について書いている。(王思叡、何家棟による要約)
「金雁はロシアの先例をもって中国の人々に、革命が知識人エリートたちの転移による爆発であるかどうかを教えている。一九〇五年革命の失敗後、以前の自由主義者のなかに『道標』派という転向が発生し、一九世紀中頃以来ロシアのインテルゲンチャのなかに生まれた急進主義的伝統を清算した。
ある人の認識では、急進主義思想は急進主義運動へと変化し、それはすでに政治的、戦術的な誤りのみならず道義的な誤りを意味した。ある人は過ぎ去ったばかりの革命への否定と懺悔を示しもし、甚だしくは革命を望まない態度がまだ少なく、革命を恐れるべきだと宣言さえした。革命の外に身を置くだけではまだ足りず、革命に対立すべきであり、政府と協同してそれを阻止すべきだというのである。
しかしエリートたちの革命的気分は胡散霧消したまさにそのとき、空前の急進主義たる一九一七年革命が突然到来し、そして勝利したのである。金雁は『革命は知識人たちの魔術なのではなく、それは私が革命であると天から訪れたのであり、そのとき告別革命はいずこかへ消え去ったのである』と指摘している」。(「革命のために反駁する」)
だから「革命」について論ずるとき「『告別革命』を語るよりは『革命を軽々しく主張しない』ことの方がより妥当である」(閑言)ということかも知れない。
その上でである。以上のような歴史的達観を揺るがす事態を二〇世紀はくぐってしまったのであり、そこでは革命家たちは「地獄への道は善意の小石で敷き詰められている」という言葉をそっくりそのまま地で行き、楊曦光のいう革命権力の抑圧権力化を山ほど経験してしまったのである。こうしてこれまでの革命がはらんでしまった「悪」の可能なかぎりの対象化が不可避の課題となる。
 そう見るとき、この李沢厚、劉再復『告別革命』は、楊曦光「革命の代償」論を引き継ぎつつ、さらに二〇世紀中国のマルクス主義と革命思想の硬直化した「革命」主義的偏向に対してはじめて自覚的な反省がなされているものとして大きな意義を持っていることが分る。
だが問題は彼らが鄧小平の「改革•開放」を評価するあまり、革命批判をその角度から行なってしまっていることである。そこでは「鄧小平実用理性」への無批判的評価や「マルクス主義は吃飯哲学〔飯を食うための哲学〕である」というような角度からの「革命イデオロギー」批判となってしまっている。「自由主義」内部からの保留、反発、批判もそこを衝いている。
すなわちその「革命」批判は楊曦光の「革命権」の再確認よりはるかに後退した地平からなされてしまっているのである。
以上の弱点を持つ彼らの「告別革命」論にはしかし見落とされてはならない重要な論点がはらまれていた。そしてそれは楊曦光の政治思想においてもほり下げられてはいず、また彼らへの批判者たちが無自覚なまま見落としている問題である。ここでは二点だけを取上げておこう。 

(3)李沢厚、劉再復の重要な寄与

その第一は李沢厚、劉再復が「改良」の意義をあらためてとらえ返すことによって、「革命」主義的政治思想がともすれば欠落してしまう過渡的、過程的諸問題の重要性を自覚化できたことである。
「革命はたしかに巨大な破壊力を持っており、それは人々の存在様式を変え
ることができるが、しかし革命がすべての問題を解決できるとかんがえることは幼稚である。過去われわれは古い国家機構の破壊のあとすべて問題はすらすらと解決するものと思ってきた。だからすべての希望とエネルギーを革命にかけてしまい、その結果社会そのものの組織、管理そして建設の能力を退化させてしまった」。
そして重要なことはこの「問題はすらすらと解決する」という楽観主義はただ「幼稚」ということではなく、かの将来社会における「国家の死滅」、すなわち「矛盾の消滅」と「政治の死滅」という理想主義、底抜けのユートピア構想に裏打ちされていたことである。
革命の暁には、まして共産主義の招来社会においては「矛盾」や「対立」が消滅するとされている以上、それとの現在的、過渡的格闘――それが「制度」の構築を含む政治的構想力の源なのだが――が真剣な課題となることはないからである。
 第二にさらに重要な問題である革命権力自体の抑圧権力化について一歩その解明に踏み込んでいることである。当初の良き意志が何を媒介構造としつつ抑圧的なものへと転化するのか。
楊曦光はこの問題に自覚的だったのだが、しかし彼はその構造について「人間は一半は天使、一半は野獣」というような「人性」論にとどまるか、一つの専制を倒すにはより一層の独裁が必要となる、だからその均衡の制度化をというようなこと以上にほり下げることはしていない。
李沢厚、劉再復の「革命的大批判」と「筆杵子」(文章の書き手)への言及は言語分析、言語批判を通してこの問題に接近しようとしたものであった。文革期に勢威をふるった「大批判」こそ解放性が抑圧性に転化する重要な契機を指し示していたのである。
「私は階級分析に反対ではないし、階級矛盾の存在を認めるし重視もする。問題は階級矛盾を解決することが必ず生きるか死ぬかの階級闘争というやり方
を必要とするのかである。私の考えでは必ずしもそうではなく、階級矛盾は階級調和、相互譲歩、協同行為、革命ではなく改良によっても解決可能と考える」。
「大批判は二〇世紀中国が生み出した怪物である。この怪物は高度な文化的専制の手段であり、それは事の是非を論ずることを完全に排除したものであり、その基本的特徴の一つは無限上網〔ある意見を極度に政治的、路線的意味付与をして批判する〕を行ない、最終的には人を政治的に打倒し、迫害して死に至らしめるものとして、それは一つの新しい文字獄であった」。(李沢厚)
「大批判方式は二〇世紀中国の一つの重要な現象であり、文化的覇権と政治的覇権の相互の結合という角度からの研究を含めて、さらに多くの角度から研究ができるだろう。二〇世紀における文化的覇権と政治的覇権はきわめて重要な現象なのである」。(劉再復)
劉再復には別に「五四」以降の中国における政治言語の歴史を扱った「言語の暴力について」というきわめて興味深い論文もある。(『民報』二〇〇一、四)
 この問題をほり下げることを通して世の「反共」主義的「革命」批判と異なる「革命」批判の道、すなわち「革命」の再生を展望した「革命」批判への道を探ることが可能となる。

3.「告別革命」論への賛否両論

(1)中国共産党系の反応

これまで中国共産党は「文革徹底否定」論への批判や「人民文革」論の登場に対してその公認文革史(席宣•金春明『「文化大革命」簡史』等)において一定の反批判を行なってきたが、しかしそれはしゃかりきなものではなく、基本は「異常に聡明なやり方、すなわち知らないふりをする」(劉国凱)、つまりそんなものは問題にするに値しないという態度であった。
だが最近はそうもいかず当局筋から事態に即応した直接、間接の反応が出てきている。その幾つかを見ておこう。

①「歴史的ニヒリズムの思潮に警戒しよう」――「告別革命」論批判

 ここではその代表的な一つ、「歴史的ニヒリズムの思潮に警戒しよう」という文章を見ておこう。二〇〇五年三月『光明日報』に掲載されたものであり、沙健孫(北京大学教授)、李文海(中国人民大学教授)、龔書鐸(北京師範大学教授)、梁柱(北京大学教授)の共同執筆である。
 「近年一部の人々は、近現代の中国の歴史に対して歴史ニヒリズムの態度を取り『あらためて評価する』という名目でほしいままに歴史を歪曲している。
 その主な内容は、一、革命の否定を提起して告別革命を主張し、革命にただ破壊作用だけを認めて何らその建設的な意義を認めない、二、五四以降中国が選んだ社会主義への道を、英米を師としたいわゆる『近代文明の主流』から離れて誤った道に入り込んだと見なして経済•文化の遅れた中国に社会主義を行なう資格はないこと、中国成立以後行なわれたのは小ブル的な空想的社会主義でしかなかったと述べ立てていること、三、一点だけを取り上げて、他の側面を見ない方法で〔過失だけを取り上げて攻撃し、その他を顧みないこと〕中国共産党の歴史を歪曲しその本質と主流を否定ないし覆い隠し、その活動は誤りの連続であったと見なしていること、以上である。
学術研究の角度から見たときこれらの視点は何の学術的価値もない。なぜなら彼らの主張は近現代の中国の歴史の実際に符合しておらず堅固なものではないからである。だが政治的にはこれらの観点の流行、これらの思潮の氾濫は人々の思想を混乱させ、ひいては重大な結果をもたらすものとしてわれわれは重大視しなければならない」。
 「近現代史の研究において、歴史ニヒリズムは革命を貶め否定し、中国人民の民族独立と人民解放のために行なった反帝反封建の闘争を貶め嘲弄する上で特出した役割を果たしている。その思潮の集中的表現が『告別革命』論である。ある文章は革命の『弊害』を力一杯大げさに誇張し、『二〇世紀の革命方式はまちがいなく中国に深甚な災難をもたらした』と公開で判定を下し、ひいてはある者は当地で端的に革命はただ『専制の復辟』もたらしただけだったと公言するありさまである」。
 「歴史ニヒリズムは歴史を歪曲し、革命を否定し、帝国主義と封建主義を美化して褒め称え、党の指導と社会主義を貶めるものであり、その行くつく先は西欧のあの方法にもとづき中国を資本主義化しようとすることである」。
 これらの引用で論者たちのおおよその論点はお分かりだろう。劉再復はこう反論する。
 「われわれは中国近代史についての新たな認識を提起したのだ。近代史は三大革命(太平天国、義和団、辛亥革命)の歴史としてだけではなく、洋務運動、戊辰変法等の改良運動の歴史をも含むものであったのだ、と」。
 「これまでの人類の歴史は即階級闘争の歴史、暴力革命の歴史ということであったのかどうか、歴史の主要な筋道は生産力の発展(生産用具の変革を含む)なのか、それとも暴力革命なのか? 私が考えるには階級闘争、暴力革命は歴史に長い流れのなかではただ僅かな瞬間、僅かな短い時期での出来事であり、主な筋道は生産力の発展だったとしなければならないのだ」。
 「この一〇年多くの人たちが『告別革命』論を批判してきたが、誰も自分らの書『告別革命』を読んではいなかった。ただ表紙を眺め、『告別革命』の四文字を見てたちまち気持ちがピリピリしたのだ。
『告別革命』という考えに異論があるのは正常なことである。だが『光明日報』の四人の学者たちとは討論しようがなく、学問的な問題に入りようがない。
彼らはまず政治審判所を設置し、用いる言葉は本質主義的な単純化された『文革言語』であり、冷静な学術的精神はなく、あるのはただ興奮した革命的心情であって建設的な態度で問題を扱うことはないのである。これでは問題を討論しようがないではないか」。
 「四人の学者たちは身は二一世紀初頭にあるが、心は二〇世紀中ほどに留まっているのだ。この種の歴史的惰性がわれわれに告げるのはこういうことである。革命を高く唱え、資本主義の復辟に反対する極左思潮が今まさに復活しつつある。
それが一旦復活するや二〇年の改革はその全精神的根拠を喪失し、ついには『資本主義復辟』の罪名のもと歴史的審判を受けりことになり、毛沢東のプロレタリア独裁下の継続革命の道に立ち戻ることとなる。これは警戒すべきことである」。
 当局側四人の学者たちは劉再復が非難する通り、文革期に猛威をふるった「革命大批判」の語彙と論理を用いて「告別革命」を批判しているわけだが、しかしそれは「告別革命」論が生まれた要因そのものに立ち入った批判とはなっていない。あるいは「革命」がはらんだ「悲劇」的問題にまったく無自覚なわけである。
 
 ② 「言語ヘゲモニー」の奪還へ――謝韜「民主社会主義のみが中国を救う」
                  論文の波紋

つぎに雑誌「炎黄春秋」二〇〇七年二月号に掲載され、著者の立場とその内容によって大きな反響を生み出した謝韜「民主社会主義方式と中国の前途」という文章を見ておこう。
これは「告別革命」論批判ではなく、内容的にはむしろ共産党版「告別革命」論なのでだが、これもまた広い意味では「告別革命」論への反応の仕方であった。
謝韜は国家指定の重点大学である中国人民大学前副学長、つまり今日の共産党権力のイデオロギー部門の要所の一つに在任した人である。
 「鄧小平、江沢民、胡錦涛が指導する改革開放が全世界の認める巨大な成果を上げたことは全党と全国人民を思想的に堅固な確信によって統一するに十分である」。
以上の当たり障りのない「改革•開放」頌歌に続いて著者は驚くべきことを述べている。
 「隠す必要はないのだが、改革開放はまた幾つかの問題、主には汚職腐敗、国家資本の流出と不公平な分配を生み出している。とくに分配の不公平さは両極分化をもたらし、騒ぎで沸き返っており、人心が乱れている。
このことは改革開放への回顧と反省を引き起こした。大多数の人々は改革開放の成果を生み出した善意の提案,献策を高く評価しており、偏りを是正し、素晴らしい情勢の発展を図ろうとしている。
ここで注意し警戒すべきことは党内の『左派』が空前に活発化していることであり、彼らは大衆が改革開放へ不満を持っている情勢を利用して改革開放を根本的に否定し、毛沢東時代に立ち戻ることを鼓吹していることである」。
 「改革開放以来の最大の理論的誤り〔失誤〕は何がマルクス主義であり、何が修正主義化か、マルクス主義の正統はつまるところどこにあるのかをはっきりさせてこなかったことである。
『修正主義に反対し、修正主義を防ぐ』という極左理論が常に再復活し、改革開放を妨害し、執政者に『打左灯,向右拐』〔左折のシグナルを点けて右へカーブする〕の政策をとることを強い、改革開放は政治上は擁護されるがイデオロギー的には非難されるという状況下で進行したのである。
中央の主な指導者たち、鄧小平、江沢民から胡錦涛はただ執政権があって言語ヘゲモニーはなかったのである。『論争をしない』〔鄧小平「不争論」〕の政策はただ自分の答弁発言権を取り消すだけであり、『左派』の改革開放への攻撃と非難は一日たりともやむことはなかった」。
 「今日の左派理論の大復活は左派が第二次文化大革命を発動し奪権しようとしているのであり、それはここ二十七年来イデオロギー上で妥協し譲歩してきたことの必然的結果なのだ」。
 以上のように謝韜は、今日の中国言論界での「左派」勢力、すなわち「新左派」ないし「新毛派」の伸張を認め、それが「空前に活発化」していること、「左派理論の大復活」が進んでいることに強い警戒を呼びかけただけではなく、さらにつぎのような大胆なイデオロギー的転換を提起している。
 それは今こそ「民主社会主義」を中国共産党の正式の路線とせよというものであり、その際謝韜は彼が強く感動した辛子陵『千秋功罪毛沢東』の主張を援用している。
辛子陵はそこで、バリケード戦はすでに古くなった、普通選挙権を活用せよという『フランスの階級闘争』エンゲルス序文と、株式会社は資本制生産様式そのものの内部での資本制生産様式の止揚であるという『資本論』第三巻第二七章でのマルクスの論述をもって「民主社会主義」は始祖たちも認めたマルクス主義の発展形態なのだと述べていた。
そして謝韜は『国家と革命』、『背教者カウツキー』等でのレーニンの批判はブランキ路線のものであり、また『資本論』を読んでおらず、レーニンとスターリンのものだけ読んだ毛沢東がそれを理解するはずがなかったというのである。
 このように謝韜にとって「言語ヘゲモニー」を取り戻し、イデオロギー上のヘゲモニーを確立するということは、今日の格差の拡大を解決できないどころか、その温床となっている共産党への批判ではなく、「改革•開放」がマルクス主義の正しい継承であり、それこそが「民主社会主義」なのだということを積極的に突き出せというものであった。
 「われわれはこれまで心底忠誠な毛派であり、左派であり、歌徳派〔「歌功\n頌徳」功績を誉めそやす〕であり、迫害されても陥れられても依然として忠誠この上なく、楯突くこともなかった。その後覚悟を決め、依然とした党の人間、改革救党派としてこの党を救出し、改善し、良き党に変えようといろいろ思案をめぐらしたが、しかし哀しみが次第に現われた。この党は救い難い、元に戻すのは至難だ、救い切れない。どうしたらいいのか!?
一つは転換、政策•方針•方策を抜本的に変えること、大度量、優れた文章、優れた政策をもって歴史の新局面を切り拓くこと、この可能性はほとんどない。もう一つは自己崩壊、自己破壊、人民から見棄てられること。これは歴史の悲劇であり、人民は(われわれの世代を含むのだが)あのような歴史の代償を支払ったのに、得たのは歴史的悲劇だとなると悲劇の中の悲劇ではないか」。(「丁弘への手紙」)
 以上の謝韜論文に対して今のところ共産党当局の反応は『人民日報』編集部が読者の質問への答えという形式で「中国の特色ある社会主義」は「民主社会主義」を必要としないと述べたにとどまっているという。
 
(2)「告別革命」ではなく「革命を避ける」ことだ――「自由主義」の反応

この「告別革命」論を「自由主義」派は当然大いなる共感をもって受けとめただろうと普通は考えて不思議はない。文革批判は「告別革命」論をもって完結すると見なされるからである。事実そう受けとめた者たちも少なくなかったのだが、「自由主義」の主だったイデオローグたちはむしろ批判的だった。たとえば朱学勤はこう言う。
「世間の人々の多くは、大陸の自由主義者は李沢厚同様ただ『告別革命』派だろうと誤認しており、意外にも両者〔朱学勤、李慎之と李沢厚〕の根本的な違いを知らない。後者の『告別革命』は消極的な態度で座して消極的自由を待つものであり、李慎之の『避免革命』〔革命を避ける〕は積極的態度で『消極的自由』を力を尽くして勝ち取ろうとするのである」。
なお、中国語の「反思」と「反省」は共に日本語で普通「反省」と訳されるものだが、前者は「過去のことを客観的考え直す」、「過去を深く考える」、後者は「犯した誤りを反省する」という違いがあるとのことである。
秦暉もまた自分は「このような反省の仕方」に同意できないという。
「私は二種類の反省を区別すべきだと考える。第一種類の反省は急進主義を反省するが、現実批判は堅持するというものである。そして反省があるからこそ、その現実批判は一層深められるのである。第二種類の反省はそうではなく、反省によって後退し、現実への批判を放棄するのであり、シニシズムに至りかねないものである。この二種類の反省は表面的には似ているが、その違いは僅かに見えて大いに異なっているのだ」。
つまり李沢厚、劉再復の主張はその鄧小平と「改革•開放」への手放しの評価において現実批判を放棄していると見なされたわけである。
「自由主義」のイデオローグたちの多くがもともとは文革を造反派紅衛兵として経験し、文革後は旧来の共産党統治を批判し矢自由派知識人たちであったのである。

(3) 「中国革命と中国史の悪魔化」――「新左派」による批判

一方、この公然たる「革命」放棄は「新左派」たちを激昂させている。その一翼「新毛派」老田は辛辣にこう言う。
「筆者もまた『告別革命』が可能となることを希望する。その唯一の実現方式は人と人との関係及び異なる階級間の根本的利益が合理的協調的なものとなることである。毛沢東時代に実施された上層階層への監督による利益の協調化は最善のものではなかったかも知れない。だがエリートたち〔「精英們」、「新自由主義」のこと〕は階層間の利益の協調を実現するいかなるご高案をも決して提出することはなかったのだ。
エリート層は今日すでに自分の考えと利益によって国家発展戦略と大政治方針を切り盛りしている。だがそこには民衆の根本的利益、そして民族の長期的、全体的な利益も見当たらないのである。エリートたちは自分の欲望を節制することがまったく出来なくなっており、すでに民衆の衣食住の権利を厳重に侵害している\nそれは明らかに三座大山〔帝国主義、封建主義、官僚資本主義〕の復活の兆しだというのに、あべこべに『革命情勢』前提的条件が醸成するなかで『告別革命』という贅沢なお喋りをするというのは、自らを欺くものである。
エリートたちは悪魔化のベテランであり、大躍進と文革を悪魔化し、中国革命と中国の歴史を悪魔化し、中華文化を悪魔化し、太平天国を悪魔化し、蒋介石を再評価している。
だがエリートたちは民衆の衣食住の必要性、民衆の基本的利益と権利とをまったくないものにすることはできず、自分の利益と圧倒的多数の利益とを協調させることはまったくできない。エリートたちは普通の民衆をエリートに変えることはできず、中国は中産階級が多数を占めるに至ったと言いなしている。
であれば彼らに別の選択の道はなく、民衆と共に『労働者農民と結合する』道を歩まなければならない。こうしてはじめて告別革命の道なのだ。李沢厚の言い方を使えば『知識分子の労働者農民化』であって『労働者農民の知識分子化』ではないのだ」。

(4)「武装自衛」と立憲主義――「人民文革」論派の態度

王希哲、劉国凱らはこの「告別革命」論に対して表立った反応はしていない。彼らが今、力を集中しているの「人民文革」論をめぐる論争であることもあるが、この「革命」批判、「反革命理論」をある理論水準をもって唱えたのは彼らが高く評価する楊曦光であったことも関係しているのかも知れない。
ただつぎのように述べるところにその基本的態度は示されていると見るべきなのだろう。
「誰であれすべての者が急進的な選択を放棄することを要求することはできない。革命的でなければならず、民衆のテロリズムに反対し、彼らを思い切って革命の条件を準備させなければならない。専制政府に対する革命は人民の天賦の人権なのである」(王希哲)
「それでは中国民主建設の目標は『人民文革』なのか? そうではない。中国民主建設の目標は民主的な立憲政治である。あらゆる形態の人民民主運動はすべて中国人民が民主的な立憲政治の実現を勝ち取っていく過程なのだ。
しかし民主立憲政治は人民運動を敵視することはできず、人民運動を消滅させる必要はない。社会のあらゆる腐敗層だけがそれを恐れるのだ。一個の国家においていつも活力を持って登場する立憲政治に規範下の民衆運動はその国家が生命力旺盛な現われである。〔•••〕西欧の立憲政治は各階層の人民に人民民主の権利と人権保障を与えている。しかし歴史的かつ今日的に各階層、各利益集団の民衆運動がなかったら、その『民主立憲政治』は考えられないのだ」。
かって文革末期の一九七〇年代中頃、「走資派」官僚集団と江青•張春橋グループとの決戦は避けられないと見て「人民武装革命」に強い期待を寄せそのための準備もしたという劉国凱は江青•張春橋グループのあっけない崩壊にがっくりしたという。
「中国の民主過程を推進するに当たって最も端的な方法は中共専制政権に最も十全な正面圧力を加え、彼らに一党独裁の特権を放棄せざるを得ないようにすることである。この『最も十全な正面圧力』とは何を意味するか? まずそれは人民大衆の武装蜂起を意味する。言い換えれば人民革命の武装勢力の威力の前に中共専制政権が打ち砕かれて瓦解するというイメージである。このイメージは一見すっきりしており、人々を痛快にさせる」。
「しかしここで問題が立ち現われる。すなわち中国社会民主党はその理念からしてこの種の方式を主張しないし、高く評価もしないのである。中国社会民主党は当然人民大衆の自衛の権利を認める。民衆の平和的な民主の訴えを専制権力が血腥く鎮圧したとき武装自衛と反撃する権利がある。
この考えはまた同時に中国社会民主党は民衆が先に武力に訴えることを主張しないことを意味する。このことはさらに民主闘争において民衆はまず何より暴力革命と武装闘争に留意すべきであると主張する民運の友人たちは中国社会民主党に入党することはできないことを意味する」。\nここで劉国凱は彼がなぜ「中国で武装闘争が発生する可能性を完全否定する」
主体的•客体的根拠を七つにまとめて述べている。
そして彼らが抱く現在の政治展望はここで王希哲が述べているように「民主的な立憲政治」の実現ということにあり、そのことにわれわれの関心もある。
「造反派は自己の誤りに気づいたあと、小農社会主義理論から立憲民主主義理論への転向は容易だった。それは彼らが一貫して理論的徹底さを追求してきたからであり、王希哲、劉国凱、楊小凱〔楊曦光〕、徐友漁たちがその最もいい例であった」。(閑話)
彼らが自分らの目標は「人民文革ではない」というとき、それは文革期彼らが抱いた「コミューン革命」をもまた放棄し、「民主的な立憲政治」の建設を択んだことを意味する。 

三、一つの展望――汪睴の「脱政治」克服論

 汪睴の最近の論考「脱政治化の政治、覇権の多重構造と六〇年代の消失」はこれまで見てきた諸論点との関連できわめて興味深く、かつ刺激的な文章である。
 われわれが汪睴のこの文章に注目するのはそこにはこれまで見てきた「文革徹底否定」と「告別革命」をめぐる各派の論点を越えるもの、あるいはそれらの諸論点をとらえ返してより生産的な展望を切り拓いていく諸契機、構想力が含まれているように思われるからである。
「『文革徹底否定』と『告別革命』の歴史過程のなかで二〇世紀中国の歴史遺産がたしかにはらんでいる未来の政治への発展契機をあらためて喚起するということは、単純に二〇世紀の入り口に立ち戻ることでは決してなく、『ポスト革命時代』(すなわち革命終結の時代)における『脱政治の政治イデオロギー』と『脱政治の政治』の専制構造の打破を探求する第一歩なのである」。
 つまり汪睴にとって「文革徹底否定」と「告別革命」の風潮は、「脱政治」と「新自由主義」という「グローバリズム」イデオロギーの一環なのであって、それからの脱却が課題とされているのである。
 汪睴はここで資本主義世界と「社会主義」世界をつらぬく「危機」をどう克服するかをめぐる壮大な二〇世紀総括の方法を「脱政治の政治」と「再政治化」というキーコンセプトを用いて提起しているのだが、ここでは文革問題に絞ってその主張を見ておこう。

(1)文革の拒絶は「二〇世紀中国の全否定」である

汪睴はそこで今日の世界的な傾向への大胆な批判を行なっている。すなわち文革が今日「徹底否定」され、忘れ去られ、それらのテーマ化はすでに「マイナー」かつ「時代錯誤」と見なされるのは文革それ自体の問題性に由来するのではなく、現代社会の「脱政治化」の結果なのであり、「真の政治的名分析」力が枯渇、衰退した証左なのだというのである。
二〇世紀末から二一世紀初めにかけて世界で「六八年革命」三〇周年の記念集会が開かれ、アジアでは「アジアの六〇年代」についての学術討論会が持たれたりしたが、いずれの場合もそこには中国の発言はなかった、と彼は言う。
「そのときから私はこの沈黙の意味を考え始めた。私が観察した第一の現象は、この沈黙は六〇年代の急進的思想と政治実践への拒絶、すなわち中国『六〇年代』のメルクマールである『文化大革命』の拒絶ということにとどまらず、それはまた二〇世紀中国の全否定でもあるのだ」。
「私がここでいう『二〇世紀中国』とは辛亥革命(一九一一)前後から一九七六年〔文革の終息〕前後の『短い二〇世紀』〔ホブズボーム〕についてであり、それはまた中国革命の世紀でもあった。〔•••〕そしてその終結は七〇年代後期から一九八九年〔天安門事件〕までのいわゆる『八〇年代』なのである」。
「歴史的角度から見るとき、六〇年代に始まった『文化大革命』への失望、懐疑と根本的な否定は、七〇年代から今日に至るこれまで見た歴史過程の基本的な前提となっている。批判的知識人たちが今日の社会的危機――三農危機、都市と農村の格差と地域格差の拡大、体制的な腐敗等々――を分析しようとするとき、彼らに対する最も有力な武器はこうであった。諸君は『文革』に立ち戻ろうとしているのか? この『文革徹底否定』の態度は、現代史の過程についてのいかなる真の政治的名分析の可能性をも潰してしまったのである」。
「歴史的角度から見たとき、どの政治的変動の後にもほとんどみな広汎な、それぞれ異なった『脱政治化の流れ』が生じた。たとえばフランス大革命の失敗のあと、一八四八年ヨーロッパ革命の失敗のあと、そして一九八九年の社会運動のあと、みなそうであった」。\n「六〇年代の拒絶と忘却は孤立した歴史的事柄なのではなく、持続的かつ全面的な『脱革命』過程の有機的な部分なのである」。
 この作業のテーマから見るとき、以上のような汪暉の論点をめぐって二つのことが問題となる。その一つは汪暉のいう「脱政治化」ではない「政治」〔汪暉はそれを「階級政治」ともいうのだが〕、「真の政治的分析」、そしてそれに充ちた「二〇世紀中国」の内実とは何かであり、もう一つはこの認識から見るとき文革とその敗北は何だったのかという問題である。

(2)「悲劇」としての文革――遇羅克の闘争と犠牲

「中国革命の内容は豊富であらゆるものを網羅するのだが、その核心的内容がないわけではなく、それはつぎの三点に概括できる。第一に土地革命を中心に農民の階級的主体性を構築し、それを基礎として労農同盟と統一戦線を作り上げ、さらに現代中国政治の基礎を定めたこと、第二に革命による建国という方策により、伝統的政治構造と社会関係の改造を通して中国を主権を持った共和国として建設し、さらに農村中国の工業化と現代化の政治的保障を提供したこと、第三に階級政治の形成と革命による建国という目標によって現代政党の産出を呼びかけ、現代政党政治の成熟の前提としたこと、以上であった」。
 一九四九年以降の共産党統治に対する、一見「新毛派」の評価と似通うこのような評価は当然異論がありうるが、汪睴の場合、それは単なる歌徳派〔「歌功頌徳」功績を誉めそやす〕としてのものではなく、中国革命のなかにはらまれていた「革命政治」(あるいは「階級政治」)の対象化とその救出、再生に向けてのものであったことに留意すべきだろう。
汪暉によれば毛沢東の「革命政治」とは、たとえば「『敵と味方の矛盾』、『人民内部の矛盾』を永久不変の固定した関係としてとらえるのとは異なり、闘争を通して主体性の転化を獲得することを励ますものであり、この時代における階級分析と統一戦線戦術にはつねにこの主体性転化を促進しうる歴史の弁証法が含まれていた」というものであった。
「もし革命主体の創造が階級転化(農民階級のプロレタリアートへの転化の政治過程であるなら、階級対立は主体の転化を通して解決できることとなる。政治的対立は階級的対立と同じなのではない。後者は調和できない性格のものだが、前者には対立関係そのものの変化――敵が友ひいては同志に転化する可能性もあれば、友と同志が敵に転化する可能性もある――が仮定されている」。
「社会主義政権が支配する条件のもとでは、『敵と味方の対立的矛盾』は社会改造の方式によって解決すべきであって、『階級の敵』の肉体的消滅によって解決するのが必然とすべきではないのである」。
「中国共産党は肉体的消滅の方式ではなく、主に思想改造、社会的実践によって戦犯を改造した」。
汪暉がとらえ返した「革命政治」、「階級政治」のイメージはこれでおおよそつかむことができる。このように汪暉は毛沢東政治をその「脱政治化」した形態でのみとらえ全否定する今日流行の見方を退け、そこに働いていた本来的政治を弁別し、その再生を図るべきだという。これは魅力的である。
ただ汪暉には中国共産党の誇る「思想改造」、「人間変革」が持っていたもう一つの側面、すなわちそれが自立した主体の形成ではなく、人々の主体の徹底的解体を通して共産党中央つまり毛沢東の主体のもとに完全従属した人格類型を生み出すことになったことが認識されていないのではないか。楊曦光のいう「革命的民主主義」の政治空間的な抑圧性がつかまれていないのである。
この重要な問題はさておき、ここで汪睴の共産党統治への見方(あるいは毛沢東と「毛沢東文革」の評価)についてひと言ふれておけば、彼はそれを一つの「悲劇」としてとらえており、それが彼を「自由主義」の全否定や「新毛派」の基本的肯定とも異なる異色の存在としている感がある。
 「文革は人類史上想念上の現実と客観的な現実との乖離した極端な例である」(黄宗智)という把握がある。中国共産党が一九四九年革命後の経過の総括においてよく使う、いわゆる「階級闘争拡大化の誤り」論である。だがそういうことではないのだと汪睴は強調する。
 「悲劇は革命政治の必然的結果だったのか、あるいは革命政治の内在的原則からの背離とそれを基準とした政策の歴史的産物だったのか?」
 これはきわめて重要な、かつ生産的な問題の設定である。
 「この時代の歴史的変化についてあらためて考えるとき、われわれはさらに問う必要がある。六〇年代政治そのものの『脱政治化』は結局のところいかなる歴史的な条件がもたらしたものなのか? この時代の多くの悲劇的な事件の原因をどう解釈したらいいのか? このことは深く研究し、全面的に考える必要がある問題だが、ここでは暫定的につぎの三点を取り上げておこう。
まず前にふれた大衆運動のセクト主義的闘争への発展、すなわち大衆運動の両極への分化とその暴力化である。つぎに毛沢東は人々を〔硬直化した〕国家―党体制への攻撃に動員するに当たりやむを得ずその個人的権威に訴えたのだが、この『便宜主義的』なやり方(のちに「個人崇拝」と言われたところの)は人々の国家―党体制への反抗精神を呼び起こしたが、同時にそれは大衆の主体性そのものの喪失をもたらすことになった。\n以上の二点は共に大衆運動の脱政治化を作り出したのである。第三に政治論争が不断に国家―党体制内部の権力闘争に取り込まれ(すなわち政治路線と理論闘争の脱政治化)、しかも国家―党体制自体が深刻な破壊に遭遇しているもとではこれらの闘争が制度的な規定の枠内に限定されることは不可能であり、その結果大規模な政治的迫害が生み出されたのである」。
 「『プロレタリア文化大革命』はその概念からいえば、社会主義国家とプロレタリア政党の自己革命であり、それが訴えたのは政治的な階級と階級闘争の概念であった。さもなければこの『革命』を『文化』をもって定義づけることはできなかった。
 この政治的な階級概念は一たび構造的な、固定化した本質的概念へと硬化さるや異なる人々の間の敵対的闘争へと転化してしまい、それによってこの概念がはらんでいた政治的能動性は徹底的に扼殺されてしまい、この政治的能動性を体現した理論研究と自由な論争は扼殺されてしまうことになる。一方的に上からの、機械的に分けられた階級区分は国家の政治と大衆闘争における『残酷な闘争、情け容赦ない打撃』の前提となった」。
 「われわれは『階級闘争の拡大化』という悲劇の総括に当たって、階級関係についての把握が客観的現実的なものから乖離したという側面のみならず、その階級区分論が政治的能動性を押しつぶした側面からもこの悲劇をとらえる必要があるのだ」。
 ここで汪暉は「出身論」を書いて社会主義中国の階層差別構造を批判し、差別された青年たちの圧倒的な支持を受けながらも、文革派勢力のもとで処刑された遇羅克の闘いと犠牲は何だったのかと問いかける。
 「身分唯一主義、出身唯一主義、血統唯一主義は二〇世紀中国の革命が含んでいたあの主観的、能動的政治観の否定であり、裏切りであった。二〇世紀の革命政治の中心的任務は、安定した階級関係が造り出したあの暴力機構と財産関係を打ち砕き、解体することではなかったか? 
そういう意味においては、遇羅克の血統論への批判を政治的能動性という角度からとらえ返すことがきわめて必要なこととなる。彼の闘争と犠牲は『脱政治化』が二〇世紀政治あるいは革命政治の動力あるいは趨勢に外在的なものだったのではなく、この過程を支配した階級概念、階級闘争概念に含まれていたことを明らかにしたのである」。
 先の問い、すなわち悲劇は革命政治の必然的結果だったのか、あるいはそれからの背離の産物だったのかという設問への汪暉の答えはこうである。
 「『文革』の悲劇は『政治化』(その象徴は政治討論、理論探求、社会自治、党―国家体制内外の政治闘争そして政治組織と言論領域での空前の活性化等々であった)の産物だったのではなく、『脱政治化』(社会自治の可能性の消滅と両極化したセクト主義的闘争、まさに政治論争の権力闘争的な政治パターンへの転化、まさに政治的階級概念の身分唯一主義的、本質主義的階級観への転化等々)の結果だったのだ」。

(3)「悲劇」をいかに克服するか――「脱政治化」から「再政治化」へ

 問題を以上のように設定するとき、課題もまた見えてくる。
 「身分論に反対する闘争は人間の自由、階級解放および未来社会への明晰な価値判断の上に建立されていた。従ってこの過程への『脱政治化』的解釈ではなく、『再政治化』的理解と、それを基礎に新たな身分論(それはまた階級関係の再生産でもある)を廃棄し抑制する制度条件を創造することこそがこの時代の悲劇性を克服する真の方法なのだ」。 
 「今日われわれは階級言語が取り消された階級社会のなかに身を置いている。私が思うには、問題は過去の階級と階級闘争の概念(われわれは今なお二〇世紀の階級政治が生み出した悲劇への反省〔反思〕のなかにいるのだ)を単純復活することにあるのではまったくなく、現代社会の平等問題と階級分化に対していかなる政治的展望を打ち立てるかなのだ。あるいは問題はまさしくどのように階級概念を構造化された範疇から解き放って、それを階級分化を防ぎ止めることを目標とする新たな政治概念に転化するかなのだ」。
 この汪暉論文については今はその輪郭のみを押えるにとどめ、また別の機会を期し、そのためにも読者諸兄(姉)の検討を期待して稿を閉じよう。
(邦訳は石井剛訳「中国における一九六〇年代の消失」岩波『思想』二〇〇七、六~七)

http://kaihouha.org/tyu.htm
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